批評再生塾 第三回課題:可処分時間・3D・テクノロジー

ゲンロンで行われている批評再生塾の第3回の課題に外野から投稿。道場破りというほどよく出来たものではないですが。ちなみに、テーマは以下の通り。文字上限がだいたい4000字とのことですが、ちょっとオーバーしています。

「現在(2015年)の映像メディア環境を踏まえ、映画、テレビ、アニメーション、ゲーム、メディアアート、ネット動画……など、なんでも具体的な映像作 品や事象をひとつ以上挙げて、今日における「映画的なもの」と「映画的でないもの」との違いを指摘し、自分が考える両者の価値までを簡潔に論じること。ま たそのさい、(映画・映像史に関する知識をいっさい知らない)異星人の「観光客」に向けて説明するようなつもりで書いてほしい」

『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか | ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 新・批評家育成サイト

 

 「映画的」という言葉は映画が生まれた当初は演劇との区別をするために、そしてテレビの誕生以後はテレビとの区別をするために作られたものでした。つまりストーリーを持つ演劇とどう差別化できるのかから始まり、その後は同じ映像メディアであるテレビとどう差別化できるのかを考えていく必要があったということです。しかし、映画は商業的な要請もありビデオやDVDなどのソフトパッケージ化を進めていくことで、テレビやパソコンのモニターといった媒体で消費される一コンテンツという機能を強めていきます。例えば、TSUTAYAなどのレンタルショップに行けば映画がテレビドラマなどの映像作品と同じ店内に並べられていますし、Netflixなどのインターネットを使った動画配信サービスではドラマ以外でもUFCなどのスポーツ番組とも並列で並べられています。テレビやパソコンのモニターでは映画もまた何を観るかという選択肢の中の一部になってしまっているのです。こういった状況で家のテレビやパソコンで鑑賞するという利用者側からの視点で見れば、従来の「映画的」などという区別は全く意味を持たないと言っていいでしょう。映画だから感じられる何かは、例えば「テレビドラマ的」なものや「ニコニコ動画的」なものなどとフラットになっています。こういった状況の中で、このお題の出題者である渡邉は著書「イメージの進行形」の中で「映画的」ということを以下のように定義しています。

  以上のように、映像圏的な状況はいまや、わたしたちの日常のいたるところで一種の「社会的事実」(デュルケーム)として氾濫し尽くしている。そして、その場合に膨大な匿名の有象無象のなかから、ひょんなことで映像圏的なリアリティを強固に固着させ、不特定多数のひとびとの注目をひくようなある種の「作品」(コンテンツ)としてのブレイクスルーを達成する基礎的な触媒、あるいはその特質を、とりあえず本論では折に触れ、「映画的なもの」や「映画的」という表現で呼んでおく。

これは映画以外の映像作品においても「映画的」な要素を見出し拡張していこうという試みです。ただ、映画を巡る状況はこのとき渡邊が定義したよりも深刻になっており、別の視点から「映画的」であることを捉え直すことが可能です。もう少しだけ別の観点から状況の分析を続けていきましょう。

 

 近年のスマートフォンの普及により話題になっている言葉として「可処分時間」があります。可処分時間とは文字通り人が自由に使うことの出来る時間のことですが、いつでもどこでもインターネットに接続できる高性能端末が手のひらにある状態になった結果、私たちは今までであれば何もしなかった時間であっても、コンテンツ消費に勤しむようになっています。先日も人身事故という痛ましい事故を起こした歩きスマホという行動は本来歩くだけの時間をメールやニュースをチェックする時間に変化させています。また、パズドラやモンストなどに代表されるソーシャルゲームはゲーム再開から終了までの時間を極端に短くすることで、どんな空き時間であってもゲームさせることに成功しています。今やニュースというジャンルもこうした流れに乗り、スマートニュースなどのアプリはスマホ時代ならではのニュースの消費スタイルを生み出しています。スマホがもたらしたこうした状況の変化により、人々の可処分時間に対する考えの変化が起きています。それは細切れの可処分時間を効率的に消費するという状態から、長い可処分時間であってもどれだけ効率的に面白いコンテンツを消費できるのかという状態への変化です。つまり、暇な時間が2時間、3時間あったとしてもそうした中で、どれだけ自分にとってメリットのあるものを消費できるかを考えていくと、当たりハズレを短い時間で判定できるインスタントなコンテンツのほうが消費されやすくなっていきます。長い時間を拘束するコンテンツにとって困難な状況にも関わらず、あえて120分近い時間を捧げ、見に行きたくなる映画というのが少ないながらも存在します。こういった映画が持つ、人を映画鑑賞に向かわせる要素にもまた「映画的」なものが宿っていると言えるのではないでしょうか。そしてそのことは、映画館で映画を見るという原始的な体験と密接に紐付いています。

 

 そういった意味で、近年、人を映画鑑賞に駆り立てる要素は映像を作り出すための編集技術の進歩によって生み出されているのではないでしょうか。つまり、テレビやネットでは見ることのできない途轍もない映像を体験することが、再度「映画的」であるという時代に再帰してきていると言えるでしょう。その技術の筆頭は3Dです。最初に度肝を抜いた作品であるジェームズ・キャメロンアバター』はストーリーやキャラクター自体は平凡であるものの、3D表現の新しさのみで映画の持つ「興行性」を喚起させました。その後も、ヴィム・ヴェンダース『Pina』はアート性の高い作品でありながら3Dの特性である奥行き表現を活かした映像を作りだしていましたし、アルフォンソ・キュアロンゼロ・グラビティ』はその奥行き表現を宇宙空間に摘要したことにより、3Dの大きいスクリーンでなければ作品を十二分に味わうことのできないものを生み出しました。これはたとえ自宅に何十インチの3Dテレビがあったとしても到底敵うことのない映画体験です(そして、上記のような時間消費スタイルの変化により映画館以外で3Dレンズをかけて鑑賞することは、ながら視聴を防ぐこととなるためそもそも耐えられない行動である可能性は高くなっています)。そういった3Dという映像表現において、現時点の極北ともいえる作品がジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』になるでしょう。作品内で膨大な引用が用いられていることは現在新潮で連載されている佐々木敦ジャン=リュック・ゴダール、1、2、3』の中でもシーンごとに細かく指摘されていますが、そういった点を置いておいて、3Dの使い方という1点に絞っても驚異的な表現に溢れた作品となっています。映画冒頭で登場するタイトルのうち、「3D」という文字を飛び出させるなどの奥行きを使った文字表現や、左右異なる映像を見せることにより飛び出して見えるという3D技術を逆転の発想で利用した左右で全く異なる映像を流し込む表現、通常の視覚や美術表現ではありえない場所をピンポイントで飛び出させる表現など、エンターテイメント映画の3Dにはない表現が映画全編に渡り繰り広げられるのです。特に左右で別の映像を流し込み最後に合流させる手法は映画史を更新する革命的な手法であると同時に、繰り返しになってしまいますが3D上映でなければ体験することができない手法となっています。

 また3D以外でも、驚異的な長回しと撮影手法によりマジック・リアリズム的な表現を生み出したアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や現在公開中のジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデスロード』などは未だかつて観たことがない映像表現となっています。これらの作品は観たことのない映像表現があるが故に、見終わった観客をソーシャルメディアでの投稿へ導き、そんなにすごいならば自分を観てみたいと更なる観客を呼び込んでいくのです。

 

 ここまで読むと誰もが3Dなどによる映像表現が今後いつまでも「映画的」なのかという疑問を持つとは思いますが、それについてはそうなるかもしれないし、むしろ短期間で取って代わられる可能性もあり、どちらとも言えないというのが答えになるでしょう。なぜなら、これはありとあらゆるテクノロジーにおいて言えることですが、その技術が独占的ではない限り、テクノロジーはより進歩しながらも安価に手軽に利用できるようになるのはこれまでの歴史が証明しています。そのときには、テレビ作品からネット上のアマチュア投稿作品まで普及していくことは間違いありません。そのときには映画がテレビやPCモニター上のコンテンツの価値としてはフラットになったのと同様に、フラットに扱われるようになるだけです。では、その瞬間に再度「映画的」という単語が無意味になるのかといえば、それもまた答えとしてはわからないということになります。ただ、音楽やファッション、アート、演劇といったあらゆるものを取り込んだ総合芸術であった映画がテクノロジーの変化を貪欲に取り込んでいくことで、また新たな「映画的」な要素が生まれてくるのではないでしょうか。既に行われているチャレンジとして、Oculus Riftに代表されるヴァーチャル・リアリティテクノロジーの活用があります。GQマガジンのインタビューにてVFXアーティストのイアン・ハンターは現在制作している作品について答えています。

──ニュー・ディール・スタジオが今注力しているヴァーチャル・リアリティについてお話をしてください。

 

ヴァーチャル・リアリティ(以下VR)は長い間存在していましたが、いままではそれを実現するための技術と設備が整っていませんでした。しかし現在は、技術の発展によりやっと可能なことが増えてきた、という状況です。私たちが行うのは、「シネマティック・ヴァーチャル・リアリティ」というものです。いままでは、ジャンプをしたり、自転車に乗ったりというVFを作られてきましたが、私たちはストーリーの中で360度全方向の世界をライヴで動かそうとしています。私のパートナーであるマシューは、『ミッション』という短編を作りましたし、私は『KAIJU FURRY』という映画を作りました。

 

──ストーリーのあるVFということですが、もう少し具体的に教えて下さい。

 

オキュラスのようなゴーグルをつけて、自由に視点を動かすことができるのですが、いままでのVFと異なるのは、あくまでもストーリーに沿った体験をするという点です。これがおもしろいのは、映画でありながら演劇的なの要素を含んでいるところです。例えば、演劇はステージ上であれば自由に誰を見ても物語は進行しますよね? これを映画に取り入れるのです。つまり映画として物語は進行してはいくものの、カメラが固定されていない分、どこを観ても発見があるわけです。当然、その間俳優はずっと演技をし続けなければなりません。

gqjapan.jp 

 もしこのような作品作りが普及していくとそれは果たして映画なのか議論を呼ぶ可能性はあるものの、これは映画の持つ別の「映画的」な側面を強化することになるでしょう。このように技術によって映画表現の可能性が更新され続けるからこそ、2015年現在の「映画的」なものについて考えていかなければならないのではないでしょうか。