批評再生塾 第五回課題:SEKAI NO OWARIは変化によって何を手に入れ、何を失うのか

ゲンロンで行われている批評再生塾のお題に外部から参加。湯浅学さんからの出題で、テーマは「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」とのこと。一応音楽のジャンルでの出題なので音楽ネタで書いてみました。

 

ボーっと火を吹くドラゴンも僕ら二人で戦ったね 勇者の剣も見つけてきたよね Ah このまま君が起きなかったらどうしよう そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ

 これはロケットニュース24というサイトが先日行われたライブ会場である日産スタジアムSEKAI NO OWARIファンからで好きな曲をアンケートしていった中で1位になった「眠り姫」という曲の歌詞の一部です。この歌詞を彼らのファンの多くを占める中学生や高校生といった若いリスナーがどう聞いているのか想像することは難しいことです。なぜなら、彼らの心情を察するにはあまりに歳が離れすぎているためです。しかし、少なくともある程度歳を取ったリスナーが聞いたときには「ドラゴンってwww」と思わず吹き出してしまうことは想像に固くありません。そして、吹き出してしまったが最後、この時点で聴き通すことは難しくなってしまいます。少し考えればわかることで、吹き出してしまう歌詞の曲をマジメに聞き通すということは、現在のようないくらでも聞く曲を選ぶことが出来る環境下では障害以外の何物でもありません。またサウンドに関しては声にボコーダーをかけているのは中田ヤスタカへの目配せがあるように考えられなくはないですが、全般的にはロックではなくポップスであり、甘ったるい音を多用するところはまさに「SEKAI NO OWARI」と言える曲になっています。しかし、2014年末から彼らは明確にこの「SEKAI NO OWARI」的なサウンドや歌詞を隠す方向に向かっています。いや、正確にはリスナーに対して誤解を誘うことで「SEKAI NO OWARI」であることを隠したままいい悪いを判断させようとしているのではないかと思うのです。

 

「英語が話せない人にとっての洋楽は、もうすっかり愉しみ尽くしたと思っていても、まだ半分ぐらい、場合によっては半分以上、愉しみが残っている。映画に流れる音楽を漠然と、美しいBGMとしてだけ聴いている人にとっての映画も、また同じである」小沼純一『映画に耳を』菊地成孔による帯文より

  日本人にとって洋楽というのは、英語が不自由であるがために歌詞を聞き何を言っているのかを楽しむものでなく、どういった音がなっているかについて異常なまでに偏った形で注目され続けたものではないだろうか。曲と歌詞両輪ある中で片方だけしか聞かない、論じないというのは異様な姿ではあると思いますが、だからこそずっと誤解し続けた状態で様々なアーティストの様々なアルバムを受け入れてきたとも言えるでしょう。音楽の世界でかつてあった「ビッグ・イン・ジャパン」という現象も、こういった文脈から考えると理解しやすくなります。どんな歌詞を歌っているかをさほど重要視せず、どれほどキャッチーなメロディを鳴らしているいるか、どれほどその音を聞いてテンションを上げることができるか、そういった観点からのみアーティストを評価するということは歌われている言葉がわかってしまうと途端に難しくなってしまいます。そうしたある種の誤解を通じて結果的にQUEENを発見しましたし、最近ではTHE MUSICというバンドを発見し育ててきました。もちろん発見できなかったもの、共感できなかったものも数多くあるでしょうが、このことは日本人が英語が堪能にならない限り変わることはないでしょう。
 また日本国内の音楽に目を向けてみましょう。例えば、Hi-Standard「My First Kiss」が英語でなく日本語で歌われていたとしたら、Ellegarden「Salamander 」の英語の発音がそれほど上手くなかったとしたら、これほど彼らが、そしてメロコア、ラウドロックといったジャンルが人気になることはなかったのではないでしょうか。日本語ではなく、英語で歌われているということにより何を歌っているかわからないが故に、ライブという場面では音に合わせてモッシュやダイブといった身体的な行為に集中できたのではないでしょうか。

I'm gonna be the anti-hero. Feared and hated by everybody. I'm gonna be the anti-hero.  So I can save you when the time comes. (SEKAI NO OWARI 「ANTI-HERO」)

 2014年10月にリリースされたSEKAI NO OWARI「Dragon Night」は彼らが世界進出を意識して作った曲です。EDMプロデューサーのNicky Romeroが楽曲のプロデュースを手がけたということもあり、サビ後のブレイク部分に導入した大胆なEDMサウンドが印象的な楽曲です。この部分だけ聞くと、世界的なクラブミュージックのクオリティと言っても問題はありませんが、とはいえ「SEKAI NO OWARI」感がないかというとそうではありません。「ドラゲナイ」というフレーズが話題になったようにサビではこんな歌詞になっています。

ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード 今宵、僕たちは友達のように踊るんだ(SEKAI NO OWARI 「Dragon Night」)

  先ほどの「眠り姫」同様ここでも「ドラゴン」が登場するなどファンタジックな歌詞世界はこれまでと同様ですが、サビ後に訪れるブレイクの音のクオリティによってこの部分がそれほど意識が向かないつくりになっています。つまりこちらが「またドラゴンかよwww」と吹き出す間もなく、音の力によって封じることに成功したといえるでしょう。つまり、歌詞に対して音で持って対抗するというのがこの曲のチャレンジだったのではないでしょうか。
 そして「Dragon Night」の大成功後、満を持してリリースされたのが映画『進撃の巨人 ATTACK THE TITAN』の主題歌にもなった「ANTI-HERO」です。プロデューサーがGorillazなどのプロデュースを手がけるDan the Automatorに変わったことで、曲調はEDMからジャジーヒップホップ調のサウンドへと大きく変化を遂げています。ただ、それ以上に意外とも言える変化は歌詞が日本語詞から英語詞になったということではないでしょうか。彼らの世界観を構築する重要な要素であったはずの歌詞が、英語になりダイレクトには伝わりにくくなったことはマイナス面が少なくないですが、当然代わりに得るものがあります。
 まず第一に彼らの歌詞の意味をそれほど考えることなく聞けるという面があります。日本語詞を見ると、やはりどこか「痛い」歌詞ではあるのですが、そのことを意識せずに聞けるというのは様々な年代のリスナーに届けるという意味ではとても効果的です。
 そして第二に彼らが鳴らす音に集中することができるという点があります。Dan the Automatorの手がけるサウンドはリズム・パターンが少し単調には感じるものの、全体的な雰囲気としてはさすがとしかいいようがない作品に仕上がっています。英語詞になったことで歌がこの楽曲を邪魔しないどころか、どこか雰囲気が増す効果まであるのではないでしょうか。今、日本のアーティストでJazz The New Chapter的な方面で攻めているアーティストは数少ないですし、メジャーなアーティストではほぼ皆無といってもいいでしょう。そういった状況で、ジャジーヒップホップと日本語詞という聞きなれない組み合わせにチャレンジするよりも英語詞によって聞き慣れた雰囲気になっているのではないでしょうか。
 SEKAI NO OWARIは音、歌詞と意図的に変化をし続けることで、日本のリスナーに対し「誤解」を呼び起こし、それがよい方向に向かっています。しかし、それが彼らの目標としている世界進出に向けてプラスに働いているのかどうかはわかりません。歌詞が英語になれば、当然のことながら英語圏の人にとっては歌っている日本語詞がわからないバンドから、何やら「痛い」英語詞を歌っている日本人バンドへと変わってしまうからです。そして、何を歌っているのかわからないことによって生まれる魅力=誤解は大きく減退してしまいます。しかし、英語圏の人たちに私達と同じような誤解があるのかどうかも定かではありません。かつて、宇多田ヒカルなど様々なアーティストが英語詞による正面突破を図ってきましたが、高い壁に跳ね返されてきました。同じような失敗になってしまうのか、彼らならではの突破が生まれるのかそれは今後を見守っていくしかありません。