2015年時間があれば聞くべきアルバムその1(ロック編)
ということで、前々回の「これを聞かずには年を越せないアルバム」に続いて、
2015年時間があれば聞くべきアルバムの紹介を。
ジャンル別に書きたいと思います。
多いジャンルもあれば少ないジャンルもありますが、その辺りは私の強さ弱さの問題です。
■ロック
突き抜けた作品はないものの、面白い作品はポツポツ出ていた印象。USインディが勢いあります。
Ogre You Asshole『Workshop』
去年、邦楽ロック史に残る大傑作『ペーパークラフト』をリリースしたオウガのライブ編集盤。これでついに彼らの代表曲「ROPE」のライブバージョンがいつでも聞けるようになりました。それ以外の曲も素晴らしく、よりライブに行きたくなる作品。
Baio『The Names』
Vampire Weekend のメンバーである、クリス・ベイオのソロ作。エレクトロニクスが多用されており、リズムの多彩さと音のクリアな感じが凄まじい作品。M1「Brainwash yyrr Face」をとりあえず聞きましょう。しかし、なぜVampire Weekendで彼は作曲していないのでしょうかね。。この人がプロダクションに絡んでくると、バンドもヤバくなりそうですが。。
Battles『La Di Da Di』
タイヨンダイ・ブラクストン離脱後2枚目のアルバム。全編インストゥルメンタルで、リズミカルでガチガチに構築されている。1stで取り組んでいた取り組みをメンバーが一人抜けてなお高めた努力の結晶のような作品。
Beach House『Thank Your Lucky Star』
久々の新作『Depression Cherry』のわずか2週間後にリリースされた『Thank Your Lucky Star』。Beach Houseの名を知らしめた傑作『Teen Dream』のような感触の作品。個人的にはこちらのほうが好み。ただ、どちらも素晴らしい作品。
Deerhunter『Fading Frontier』
サマーソニックの出演キャンセルは残念だったものの、その分きっちり新作出してきたディアハンター。前作の『Monomania』で目立ったシューゲイザー色は薄くなり、Beach Houseのようなメロウなサイケデリアに。廃れたリゾート地とかで聞きたい感じ。
Girl Band『Holding Hands With Jamie』
定期的に良質なポスト・パンクバンドが出てくる国イギリス。その最新モードがGirl Band。エクスペリメンタルで、実験的でかつポップでととてもよいです。フジ・ロックとか来ないかしら。来ないか。
Titus Andronicus『The Most Lamentable Tragedy』
俺達のタイタス・アンドロニカスによる新作。全29曲というバカみたいなボリューム。ロックを作り上げている要素を分解して一曲ずつ鳴らしているような純度の高い作品。フジ・ロック来ないかしら。来ないか。
井出健介と母船『井出健介と母船』
元バウスシアターの店員というところに親近感が湧くところだけれど、そういった点を除いても真摯に作られた美しい作品。アルバムジャケがこの作品のイメージを端的に示している。水に響くように鳴らされる演奏と歌。
髭『ねむらない』
サイケとロックンロールを両立していたバンドがフォーキーに、サイケデリックに寄せてきた11枚目のアルバム。故にいつでも何度でも繰り返し聞くことができる。M1「ジョゼ」、M2「ネヴァーランド・クルージング」の二曲は本当に素晴らしい。
本当は一回で終わらせようと思ったものの、結構長くなってしまったので次回に続きます。次回はポストクラシカル、ダンス・エレクトロニカ、ジャズ、ワールド、ヒップホップのアルバム紹介になります。
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contact gonzo お笑いとパフォーミング・アーツを分かつものは何か考える その1
この中で個人的に重要だと思うのは下記の3箇所ではないかと思う。
1.Aが仰向けに寝転ぶ。続いてBがその上に乗る。10分後、Cが大きな石を持ってさらに乗る。
2.暗転はAがボルトナットをドラムにあてたら、Bがそれを判断して照明を消す。
3.すべてを真顔で無言で行う事。
この作品の登場人物は4人でそれぞれが動作に対して制約を持っている。まず寝転んでいるAは、BとCが身体の上に乗っていると身体が不自由な状態でボルトナットを投げドラムに当てなければならない。なおかつ、「すべてを真顔で無言で行う」必要がある。BとCは石などの重い荷物を持ち続けながら、Aという不安定な「足場」の上で5分または15分過ごさなければならない。DはAがドラムにナットを当てなければ登場することすらできない。
しかし、この4人の制約を比べれば誰もがわかる通り、Aの制約のウエイトが他の3人と比べて圧倒的なまでに大きい。そのため、「すべてを真顔で無言で行う」という制約は後半にいくに従って破られる回数が多くなっていく。「ウッ」と「オェ」といった呻き声は口元に配置されたマイクに漏れなく拾われ、会場内に響き渡る。当然、その声に呼応するように客席からは笑いの声が漏れていく。また、そのような辛い状況でありながら、Aは袋からナットを取り出してはドラムに当てようと狙いを定めて投げる。普通にやればほとんど当たるであろう距離にも関わらず、上に人が乗った状態で首を十分に動かせない状況ではなかなか当てることができない。投げたナットがドラムの上を通過し、床にコロコロと音を立てながら転がっていく。ここでもまた、ドラムに当たったときよりも当たらずに床に転がるほうが客席から笑いの声が上がる。
この様子はある意味で「無茶振り」をして笑いを取るバラエティ番組のようであるが、とはいえ観客たちは決して彼らのパフォーマンスを笑うために観に来ているわけではないだろう。ということは、contact ginzoのパフォーマンスにはバラエティ的な笑いを生で観るということとは違う、「パフォーミング・アーツ」足らしめる何かがあるということになるのだろう。そこは分けるものはなんなのかというのを考えてみたい。
こういったことを考える契機となったよは、このパフォーマンスを観る数日前に、テレビにてバナナマンとバカリズムによるバラエティ番組「そんなバカなマン」で「ノーリアクション柔道」というコーナーが行われていた。ルールは非常にシンプルで、自分に起きる出来事にどれだけリアクションせずにいられるかを二人で競うというものだ。この点はゴンゾの「すべてを真顔で無言で行う事」というルールと重なる点がある。では、どのようなことが行われているかをいくつかのキャプチャを用いて説明していく。
ノーリアクション柔道の「水ぶっかけ」はバナナマン設楽がペットボトルで水を飲んでいる状態からペットボトルを勢い良く向かいに立っている相手に対して振り、水をぶっかけるというものである。
このようにして勢いよく水をかけられた後でどれだけリアクションをせずにいられるかが本来の趣旨であった。しかし、企画上の(幸運な)トラブルが発生する。それは、水がかけられるバカリズムよりも水をかける側の設楽のほうが多く水がかかってしまうのである。それに対しバカリズムは笑いを堪えられず、微妙な表情を浮かべるのである。
このキャプチャを見て、このコーナーが「パフォーミング・アーツ」だと思う人は恐らくいないだろう。ではなぜ、そういう差が生まれるのだろうか。このコーナーは、そもそも「人に水がかけられる様子が面白いのでは?」とか、「そんな水をかけられた人がリアクションをガマンするのを見るのも面白いのでは?」というのが企画の発端ではないかと思う。しかし、企画の根幹に「面白さ」があるとアートなりえないのかとそうではないだろう。ゴンゾも早稲田での公演後に行われたトークショーにて、思いついた面白いことを試して作品作りをしているようなことを話しており、「面白さ」という一言では区別することは難しいだろう。
実はコンタクト・ゴンゾの作品を見終えたときには、この二つを比較して「ガチ」であることと「ルールの複雑さ」にこそ、アート足り得る要素があるのではないかと考えていた。「そんなバカなマン」は(別に悪いことではないが)どこか緩いテンションで進行しており、それ故にルールがイマイチ機能していないのではと思ったからである(設楽に水がかかってしまうのを我慢するのは本来の想定されているリアクションとは異なるため)。しかし、このことは別のバラエティにより簡単に覆すことができるのである。続く。
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2015年これを聞かずには年を越せないアルバム5枚
2015年は日本でもようやく音楽聴き放題系のサービスが始まり、個人的には音楽の聞き方が大きく変わったなぁという印象です。特にCDを借りるという目的ではTSUTAYAに本当に行かなくなりました。Apple MusicになくてTSUTAYAにあるというのはそんなにないのが原因の一つで、もう一つはもう聞ききれないほどApple Musicに曲があるのでちょっとないくらいだと別に借りに行く気が起きないというのも理由としてはあります。
さて、12月に入っていないのですが今後のリリースで大物はColdplayくらいしか残っていないので今年の振り返りをしたいと思います。とはいえ、今年は傑作、歴史的名盤が多すぎなので2つのカテゴリに分けて紹介したいと思います。
カテゴリ1:これを聞かずには年を越せないアルバム
文字通り、2015年を代表する1枚で聞いておくと来年以降も音楽を聞くのが楽しくなるような作品たちです。順番つけるのが難しいので順不同です。
カテゴリ2:時間があれば聞くべきアルバム
年を越せないほどではないけど、個人的に好きなアルバムもあるのでこれらをちょっと紹介させてください。
一旦、今日はこれを聞かずには年を越せないアルバムについて。
cero『Obscure Ride』
以前のアルバムはあまり関心していなかったのですが、このアルバムにも収録されている「Orphans」や「夜去」に完全にやられ、このアルバムにもグッときました。リズム、メロディ、アレンジ全てがここ日本では群を抜いた出来だと思います。Apple Musicにはないです!買うか借りましょう。
Tame Impala『CURRENTS』
オーストラリア出身のロックバンドによる、これぞサイケデリック!というアルバム。ポップなメロディに音の抜き差しで盛り上げていくM1「Let It Happen」が抜群の出来。それ以降もクラクラするような出来なので何はともあれ聞きましょう。Apple Musicにあります!
Kendrick Lamar『To Pimp a Butterfly』
アメリカ期待の若手にしてこのアルバムにてもうレジェンドとなったケンドリック・ラマーの2nd。英語が苦手な自分にはまだこのアルバムの真価は全て分かってないですが、アルバム一枚で表現しようとしている射程が広すぎ。。そして広げに広げた風呂敷を畳みきる凄さがこのアルバムにはあります。Apple Musicにあります!
ONEOHTRIX POINT NEVER『GARDEN OF DELETE』
前作『R Plus Seven』が年間ランキングでも軒並み上位に入っていたONEOHTRIX POINT NEVERのArca以降を示す素晴らしいアルバム。メタル、インダストリアルといったロックと、エレクトロやダブステップといったクラブ・ミュージックをAphex TwinやArca風に混ぜあわせたようなジャンク感溢れる作品。Apple Musicにあります!
服部峻『MOON』
一つ前に紹介したONEOHTRIX POINT NEVERがジャンクな音楽をあえて使って絶妙に構築した音楽だとすると、こちらはジャズやアンビエントなどの音楽を使って精密に構築された建造物のような音楽。これが映画のサントラとは信じられない。。インタビューなど読むと次の作品はだいぶ先になりそうだけど、早く聞いてみたいと思わせる傑作。Apple Musicにありません!レンタルもないと思うので買いましょう!タワレコへGO!
ということで一応ジャンルをバラバラにして5枚紹介してみました。これらの作品はどれも他の作品に繋がる奥行きが半端ないのがいいなと思っている理由でもあります。もちろんそれぞれの作品が抜群に素晴らしいのが前提で、言うまでもありませんが。。
ここまで挙げた以外にも泣く泣く落としてる作品は山のようにあるのでそれは次の記事で。
9月のランニング月報
今月からランニングについても月次で反省をしてみようと思う。これまでの状況としては、今年の初めから左右の足首や膝を痛めていて、接骨院に通いつつ騙し騙し走っていたのだけれどようやく全快に近づいている。
■ログ的なもの
9月はRunkeeperのログによれば、
・17のアクティビティ
・月間走行距離100キロちょうどくらい
・久々の大山トレラン
・川崎月例マラソン3キロと5キロの部に出た
といった感じだった。
■思うところなど
川崎月例マラソンに関しては、5キロの部で自己ベストの22:20というタイムが出て、結構驚いている。
3キロの部は、5キロの部のためのアップという位置付けで8割くらいの力で走って13分を切るくらいのタイムだった。なぜかベストとさほど変わらないタイムなので、課題は徐々に見えつつにある気がする。
大山でのトレランは、今年3月の高水山のトレラン大会で膝を痛め、リタイアして以来なかなか行けてなかったけれど、しばらくぶりに行けたのでよかった。スリッピーな地面に加えて、下り坂でのカラダの使い方がボロボロで、足の親指の爪が真っ黒になるなどダメージがかなり大きかった。
年末のTOKYO八峰マウンテントレイルに出るか大分悩むレベルなのだけど、締め切りも延びたし、これは出ろということなのかなぁとも思っている。
月間走行距離は今年入って初めて100キロ超えたので満足。月の前半はまだまだ暑かったので、朝には走らず、夜に会社からの帰宅ランで距離を稼いだ。10月以降も帰宅ランを続けるのかどうかはまだ未定。背負う荷物が増えると継続が難しくなる。スーツのジャケットが入るだけの余裕がカバンにあるのかというた厳しい面があるけど、はて。。
藤井隆『Coffee Bar Cowboy』レビュー
『Coffee Bar Cowboy』は藤井隆3枚目のオリジナルアルバムであり、彼が作曲を手がけた曲が含まれる最初の作品です。そんな彼のある意味処女作とも言える作品は野心、仁義、謙虚さ、大胆さといった複雑な要素を併せ持ちながら、アルバムを通して決して飽きさせることのないダンス・アルバムになっています。ダンス・アルバムにおいて聞いていて飽きさせないというだけでも相当に難易度が高いにも関わらず、おそらく藤井隆のみが抱えていたと思われる勝手ルールが作品から伝わり、なおかつクリアしていることからも彼の音楽家としての才能の高さが存分に伝わる傑作ではないでしょうか。
今回のアルバムで藤井自身が作曲を手がけているのは5曲(うち、西寺郷太との共作が1曲)で、その曲の長さを見るとこのアルバムのちょっとした異様さが見えてきます。藤井作曲の曲と長さを曲順に挙げていくと、M1「YOU OWE ME」が7分56秒、M2「Quiet Dance feat. 宇多丸」が4分13秒、M4「driving me crazy 」が7分9秒、M5「make over feat. 乙葉」が4分7秒、M7「discOball」が6分21秒となってます。フィーチャリング曲以外の曲がポップソングとしての尺で考えても、またはプロモーションなど観点から考えても長過ぎるのです。こうした尺の長さと彼が作った曲調から考えられるのは、「自分が作った曲を全て12インチレコードでリリースしたいのではないか」ということです。そう考えると、なぜM1「YOU OWE ME」のイントロが1分30秒近くあるのかも納得がいきます。自分が、もしくは他の人にDJする際に使ってもらいたい、そのためにはミックスのための尺が必要ということではないでしょうか。ただ、そんな野心を抱いているとしても、叩きようのないクオリティなのが恐ろしいところです。
また、客演を務めるのは彼が再度アルバムを作る決意をさせたライムスターの宇多丸や、妻の乙葉、これまでの藤井作品や今作でも詞を提供しているYOU、そして共同プロデュースを手掛けるNONA REEVESの西寺郷太といったこのアルバムを作ることを支えたであろう人を全て登場させているのも印象的です。にも関わらず、例えば、宇多丸のラップにはかなり細かいテーマの指定をしていたりします。
西寺 藤井さんの歌詞は1つひとつに映像が付いてるんですよ。宇多丸さんとの打ち合わせでも「迎賓館にある国の王子がいて、立食パーティにも疲れたなと窓辺で外を見ていたら、2人の若者が歩いていくところを目撃して」みたいな感じで具体的に話していたんですよ。※1
こうした自分で作った制約にも関わらず、ただの客演で終わらせないプロデュース能力も高く発揮されています。その他、アルバムの収録順やシングル曲のリミックスなど様々な観点から熱意を感じるこのアルバムは藤井隆をアーティストに押し上げた作品であり、今度は近いうちに出るであろう次回作への期待が高まる作品となっています。
※1:http://natalie.mu/music/pp/fujiitakashi
PIZZICATO ONE『わたくしの二十世紀』レビュー
小西康陽の一人ユニットであるPIZZICATO ONEの2ndアルバム『わたくしの二十世紀』は小西自らが作曲した楽曲のセルフカバーアルバムである。と聞くと、ピチカート・ファイヴ時代のあんな曲やこんな曲が入っているのか!?という期待が高まるものだが、そんな期待をそっと避けるかのように小西がプロデュースをした野本かりあの「私が死んでも」からアルバムは始まる。だが、そんな「私が死んでも」がアレンジ含めて素晴らしい仕上がりになっていることで、このアルバムに傑作としての雰囲気を与えている。
野本かりあ版の「私が死んでも」は、ドラムロールの音感などがピチカート・ファイヴ風なアレンジとなっており歌詞に注目が集まるような作りにはなっていないが、ノンベース、ノンビートの弾き語り風の、BPMを抑えたアレンジに変わったことにより、「歌詞・メロディ・アレンジ」のうちの「歌詞とメロディ」に注目しやすい作りに変わっている。それにより浮かび上がってくるのは、素晴らしいメロディであり、素晴らしい歌詞であり、そしてこんな素晴らしい曲がなぜか埋もれてしまっていたというシンプルな驚きである。「私が死んでも」の歌詞はこう始まる。
私が死んでも 泣いたりしないで なんにも言わずに 私を忘れて 悲しいことなんて なんにもないじゃない 明日も世界は 変わらないのだし みんなみんな いつかは さよならするのだし みんなみんな いつか死ぬの
パッと読んで分かる通り、難しい言葉は使っていない。シンプルな言葉の連なりで事実を書き出しているだけにも関わらず心に響く。そういった歌詞であることが弾き語りことによって立ち上がってくる。少しアルバムからは逸れるが、この「私が死んでも」は、KUNIO12『TATAMI』という演劇の公演の重要な場面で使われている。舞台上では男性俳優によって歌われるが、シンプルな言葉であるが故に観客にも届き、心に響くが故に極めて重要な場面を任せられる楽曲であり、そして誰もが歌えるスタンダードナンバーであると再認識した場面だった。こうした言葉が小西の作った曲には山ほどあることが、新たなアレンジによって掘り起こされているところがこのアルバムの魅力の一つである。
小西 やっぱりたくさん作ってくると愛着がある曲もあって、なおかつ、自分が愛着を抱いてるほどには人に知られてない曲もあって。そういうものを折に触れてまとめて誰かに聴かせたいという気持ちがあるんですよ。今までいろんなかたちでやってきたんですけど、今回は、まずは自分のために作ったレコードだと言えます。自分が家で聴きたいレコードって何枚もあるんですけど、そのなかでも一番聴きたいレコードの、その一枚に加えたくて作った。だから、こういう言い方は僭越なんですけど、本当に誰よりも自分のために作ったレコードなんです。※1
とはいえ、このアルバムが楽曲の良さを掘り起こしているだけのアルバムでないことは各歌い手のチョイスからも伺える。例えば、一曲だけ参加しているYOUの「戦争は終わった」は、YOUの歌唱を活かしたアレンジとなっている。ピチカート・ファイヴのバージョンではどちらかと言えば歌い上げるようになっていたサビの「戦争はどうしてなくならないのかな」というフレーズが、YOUの持ついい意味での軽さが出る歌い方になっている。このアレンジにより日常的に聴きやすいにも関わらず、さらっと凄いことを歌っている曲へと生まれ変わっている。曲と歌い手の組み合わせも作りこまれており、単にカバーしているだけでないことが十二分に伝わってくる。
こうしたアレンジに関するアイデアはアルバム中にたくさん詰まっている。だがそうした一つ一つの楽曲が集まったことにより、小西の狙い通り誰もが家でのふとした瞬間に流すことのできる作品となっていることが一番の魅力なのだろう。
※1:http://www.universal-music.co.jp/pizzicato1/news/interview/より
批評再生塾 第五回課題:SEKAI NO OWARIは変化によって何を手に入れ、何を失うのか
ゲンロンで行われている批評再生塾のお題に外部から参加。湯浅学さんからの出題で、テーマは「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」とのこと。一応音楽のジャンルでの出題なので音楽ネタで書いてみました。
ボーっと火を吹くドラゴンも僕ら二人で戦ったね 勇者の剣も見つけてきたよね Ah このまま君が起きなかったらどうしよう そんなこと思いながら君の寝顔を見ていたんだ
これはロケットニュース24というサイトが先日行われたライブ会場である日産スタジアムでSEKAI NO OWARIファンからで好きな曲をアンケートしていった中で1位になった「眠り姫」という曲の歌詞の一部です。この歌詞を彼らのファンの多くを占める中学生や高校生といった若いリスナーがどう聞いているのか想像することは難しいことです。なぜなら、彼らの心情を察するにはあまりに歳が離れすぎているためです。しかし、少なくともある程度歳を取ったリスナーが聞いたときには「ドラゴンってwww」と思わず吹き出してしまうことは想像に固くありません。そして、吹き出してしまったが最後、この時点で聴き通すことは難しくなってしまいます。少し考えればわかることで、吹き出してしまう歌詞の曲をマジメに聞き通すということは、現在のようないくらでも聞く曲を選ぶことが出来る環境下では障害以外の何物でもありません。またサウンドに関しては声にボコーダーをかけているのは中田ヤスタカへの目配せがあるように考えられなくはないですが、全般的にはロックではなくポップスであり、甘ったるい音を多用するところはまさに「SEKAI NO OWARI」と言える曲になっています。しかし、2014年末から彼らは明確にこの「SEKAI NO OWARI」的なサウンドや歌詞を隠す方向に向かっています。いや、正確にはリスナーに対して誤解を誘うことで「SEKAI NO OWARI」であることを隠したままいい悪いを判断させようとしているのではないかと思うのです。
「英語が話せない人にとっての洋楽は、もうすっかり愉しみ尽くしたと思っていても、まだ半分ぐらい、場合によっては半分以上、愉しみが残っている。映画に流れる音楽を漠然と、美しいBGMとしてだけ聴いている人にとっての映画も、また同じである」小沼純一『映画に耳を』菊地成孔による帯文より
日本人にとって洋楽というのは、英語が不自由であるがために歌詞を聞き何を言っているのかを楽しむものでなく、どういった音がなっているかについて異常なまでに偏った形で注目され続けたものではないだろうか。曲と歌詞両輪ある中で片方だけしか聞かない、論じないというのは異様な姿ではあると思いますが、だからこそずっと誤解し続けた状態で様々なアーティストの様々なアルバムを受け入れてきたとも言えるでしょう。音楽の世界でかつてあった「ビッグ・イン・ジャパン」という現象も、こういった文脈から考えると理解しやすくなります。どんな歌詞を歌っているかをさほど重要視せず、どれほどキャッチーなメロディを鳴らしているいるか、どれほどその音を聞いてテンションを上げることができるか、そういった観点からのみアーティストを評価するということは歌われている言葉がわかってしまうと途端に難しくなってしまいます。そうしたある種の誤解を通じて結果的にQUEENを発見しましたし、最近ではTHE MUSICというバンドを発見し育ててきました。もちろん発見できなかったもの、共感できなかったものも数多くあるでしょうが、このことは日本人が英語が堪能にならない限り変わることはないでしょう。
また日本国内の音楽に目を向けてみましょう。例えば、Hi-Standard「My First Kiss」が英語でなく日本語で歌われていたとしたら、Ellegarden「Salamander 」の英語の発音がそれほど上手くなかったとしたら、これほど彼らが、そしてメロコア、ラウドロックといったジャンルが人気になることはなかったのではないでしょうか。日本語ではなく、英語で歌われているということにより何を歌っているかわからないが故に、ライブという場面では音に合わせてモッシュやダイブといった身体的な行為に集中できたのではないでしょうか。
I'm gonna be the anti-hero. Feared and hated by everybody. I'm gonna be the anti-hero. So I can save you when the time comes. (SEKAI NO OWARI 「ANTI-HERO」)
2014年10月にリリースされたSEKAI NO OWARI「Dragon Night」は彼らが世界進出を意識して作った曲です。EDMプロデューサーのNicky Romeroが楽曲のプロデュースを手がけたということもあり、サビ後のブレイク部分に導入した大胆なEDMサウンドが印象的な楽曲です。この部分だけ聞くと、世界的なクラブミュージックのクオリティと言っても問題はありませんが、とはいえ「SEKAI NO OWARI」感がないかというとそうではありません。「ドラゲナイ」というフレーズが話題になったようにサビではこんな歌詞になっています。
ドラゴンナイト 今宵、僕たちは友達のように歌うだろう ムーンライト、スターリースカイ、ファイアーバード 今宵、僕たちは友達のように踊るんだ(SEKAI NO OWARI 「Dragon Night」)
先ほどの「眠り姫」同様ここでも「ドラゴン」が登場するなどファンタジックな歌詞世界はこれまでと同様ですが、サビ後に訪れるブレイクの音のクオリティによってこの部分がそれほど意識が向かないつくりになっています。つまりこちらが「またドラゴンかよwww」と吹き出す間もなく、音の力によって封じることに成功したといえるでしょう。つまり、歌詞に対して音で持って対抗するというのがこの曲のチャレンジだったのではないでしょうか。
そして「Dragon Night」の大成功後、満を持してリリースされたのが映画『進撃の巨人 ATTACK THE TITAN』の主題歌にもなった「ANTI-HERO」です。プロデューサーがGorillazなどのプロデュースを手がけるDan the Automatorに変わったことで、曲調はEDMからジャジーヒップホップ調のサウンドへと大きく変化を遂げています。ただ、それ以上に意外とも言える変化は歌詞が日本語詞から英語詞になったということではないでしょうか。彼らの世界観を構築する重要な要素であったはずの歌詞が、英語になりダイレクトには伝わりにくくなったことはマイナス面が少なくないですが、当然代わりに得るものがあります。
まず第一に彼らの歌詞の意味をそれほど考えることなく聞けるという面があります。日本語詞を見ると、やはりどこか「痛い」歌詞ではあるのですが、そのことを意識せずに聞けるというのは様々な年代のリスナーに届けるという意味ではとても効果的です。
そして第二に彼らが鳴らす音に集中することができるという点があります。Dan the Automatorの手がけるサウンドはリズム・パターンが少し単調には感じるものの、全体的な雰囲気としてはさすがとしかいいようがない作品に仕上がっています。英語詞になったことで歌がこの楽曲を邪魔しないどころか、どこか雰囲気が増す効果まであるのではないでしょうか。今、日本のアーティストでJazz The New Chapter的な方面で攻めているアーティストは数少ないですし、メジャーなアーティストではほぼ皆無といってもいいでしょう。そういった状況で、ジャジーヒップホップと日本語詞という聞きなれない組み合わせにチャレンジするよりも英語詞によって聞き慣れた雰囲気になっているのではないでしょうか。
SEKAI NO OWARIは音、歌詞と意図的に変化をし続けることで、日本のリスナーに対し「誤解」を呼び起こし、それがよい方向に向かっています。しかし、それが彼らの目標としている世界進出に向けてプラスに働いているのかどうかはわかりません。歌詞が英語になれば、当然のことながら英語圏の人にとっては歌っている日本語詞がわからないバンドから、何やら「痛い」英語詞を歌っている日本人バンドへと変わってしまうからです。そして、何を歌っているのかわからないことによって生まれる魅力=誤解は大きく減退してしまいます。しかし、英語圏の人たちに私達と同じような誤解があるのかどうかも定かではありません。かつて、宇多田ヒカルなど様々なアーティストが英語詞による正面突破を図ってきましたが、高い壁に跳ね返されてきました。同じような失敗になってしまうのか、彼らならではの突破が生まれるのかそれは今後を見守っていくしかありません。