批評再生塾 第三回課題:可処分時間・3D・テクノロジー

ゲンロンで行われている批評再生塾の第3回の課題に外野から投稿。道場破りというほどよく出来たものではないですが。ちなみに、テーマは以下の通り。文字上限がだいたい4000字とのことですが、ちょっとオーバーしています。

「現在(2015年)の映像メディア環境を踏まえ、映画、テレビ、アニメーション、ゲーム、メディアアート、ネット動画……など、なんでも具体的な映像作 品や事象をひとつ以上挙げて、今日における「映画的なもの」と「映画的でないもの」との違いを指摘し、自分が考える両者の価値までを簡潔に論じること。ま たそのさい、(映画・映像史に関する知識をいっさい知らない)異星人の「観光客」に向けて説明するようなつもりで書いてほしい」

『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか | ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 新・批評家育成サイト

 

 「映画的」という言葉は映画が生まれた当初は演劇との区別をするために、そしてテレビの誕生以後はテレビとの区別をするために作られたものでした。つまりストーリーを持つ演劇とどう差別化できるのかから始まり、その後は同じ映像メディアであるテレビとどう差別化できるのかを考えていく必要があったということです。しかし、映画は商業的な要請もありビデオやDVDなどのソフトパッケージ化を進めていくことで、テレビやパソコンのモニターといった媒体で消費される一コンテンツという機能を強めていきます。例えば、TSUTAYAなどのレンタルショップに行けば映画がテレビドラマなどの映像作品と同じ店内に並べられていますし、Netflixなどのインターネットを使った動画配信サービスではドラマ以外でもUFCなどのスポーツ番組とも並列で並べられています。テレビやパソコンのモニターでは映画もまた何を観るかという選択肢の中の一部になってしまっているのです。こういった状況で家のテレビやパソコンで鑑賞するという利用者側からの視点で見れば、従来の「映画的」などという区別は全く意味を持たないと言っていいでしょう。映画だから感じられる何かは、例えば「テレビドラマ的」なものや「ニコニコ動画的」なものなどとフラットになっています。こういった状況の中で、このお題の出題者である渡邉は著書「イメージの進行形」の中で「映画的」ということを以下のように定義しています。

  以上のように、映像圏的な状況はいまや、わたしたちの日常のいたるところで一種の「社会的事実」(デュルケーム)として氾濫し尽くしている。そして、その場合に膨大な匿名の有象無象のなかから、ひょんなことで映像圏的なリアリティを強固に固着させ、不特定多数のひとびとの注目をひくようなある種の「作品」(コンテンツ)としてのブレイクスルーを達成する基礎的な触媒、あるいはその特質を、とりあえず本論では折に触れ、「映画的なもの」や「映画的」という表現で呼んでおく。

これは映画以外の映像作品においても「映画的」な要素を見出し拡張していこうという試みです。ただ、映画を巡る状況はこのとき渡邊が定義したよりも深刻になっており、別の視点から「映画的」であることを捉え直すことが可能です。もう少しだけ別の観点から状況の分析を続けていきましょう。

 

 近年のスマートフォンの普及により話題になっている言葉として「可処分時間」があります。可処分時間とは文字通り人が自由に使うことの出来る時間のことですが、いつでもどこでもインターネットに接続できる高性能端末が手のひらにある状態になった結果、私たちは今までであれば何もしなかった時間であっても、コンテンツ消費に勤しむようになっています。先日も人身事故という痛ましい事故を起こした歩きスマホという行動は本来歩くだけの時間をメールやニュースをチェックする時間に変化させています。また、パズドラやモンストなどに代表されるソーシャルゲームはゲーム再開から終了までの時間を極端に短くすることで、どんな空き時間であってもゲームさせることに成功しています。今やニュースというジャンルもこうした流れに乗り、スマートニュースなどのアプリはスマホ時代ならではのニュースの消費スタイルを生み出しています。スマホがもたらしたこうした状況の変化により、人々の可処分時間に対する考えの変化が起きています。それは細切れの可処分時間を効率的に消費するという状態から、長い可処分時間であってもどれだけ効率的に面白いコンテンツを消費できるのかという状態への変化です。つまり、暇な時間が2時間、3時間あったとしてもそうした中で、どれだけ自分にとってメリットのあるものを消費できるかを考えていくと、当たりハズレを短い時間で判定できるインスタントなコンテンツのほうが消費されやすくなっていきます。長い時間を拘束するコンテンツにとって困難な状況にも関わらず、あえて120分近い時間を捧げ、見に行きたくなる映画というのが少ないながらも存在します。こういった映画が持つ、人を映画鑑賞に向かわせる要素にもまた「映画的」なものが宿っていると言えるのではないでしょうか。そしてそのことは、映画館で映画を見るという原始的な体験と密接に紐付いています。

 

 そういった意味で、近年、人を映画鑑賞に駆り立てる要素は映像を作り出すための編集技術の進歩によって生み出されているのではないでしょうか。つまり、テレビやネットでは見ることのできない途轍もない映像を体験することが、再度「映画的」であるという時代に再帰してきていると言えるでしょう。その技術の筆頭は3Dです。最初に度肝を抜いた作品であるジェームズ・キャメロンアバター』はストーリーやキャラクター自体は平凡であるものの、3D表現の新しさのみで映画の持つ「興行性」を喚起させました。その後も、ヴィム・ヴェンダース『Pina』はアート性の高い作品でありながら3Dの特性である奥行き表現を活かした映像を作りだしていましたし、アルフォンソ・キュアロンゼロ・グラビティ』はその奥行き表現を宇宙空間に摘要したことにより、3Dの大きいスクリーンでなければ作品を十二分に味わうことのできないものを生み出しました。これはたとえ自宅に何十インチの3Dテレビがあったとしても到底敵うことのない映画体験です(そして、上記のような時間消費スタイルの変化により映画館以外で3Dレンズをかけて鑑賞することは、ながら視聴を防ぐこととなるためそもそも耐えられない行動である可能性は高くなっています)。そういった3Dという映像表現において、現時点の極北ともいえる作品がジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』になるでしょう。作品内で膨大な引用が用いられていることは現在新潮で連載されている佐々木敦ジャン=リュック・ゴダール、1、2、3』の中でもシーンごとに細かく指摘されていますが、そういった点を置いておいて、3Dの使い方という1点に絞っても驚異的な表現に溢れた作品となっています。映画冒頭で登場するタイトルのうち、「3D」という文字を飛び出させるなどの奥行きを使った文字表現や、左右異なる映像を見せることにより飛び出して見えるという3D技術を逆転の発想で利用した左右で全く異なる映像を流し込む表現、通常の視覚や美術表現ではありえない場所をピンポイントで飛び出させる表現など、エンターテイメント映画の3Dにはない表現が映画全編に渡り繰り広げられるのです。特に左右で別の映像を流し込み最後に合流させる手法は映画史を更新する革命的な手法であると同時に、繰り返しになってしまいますが3D上映でなければ体験することができない手法となっています。

 また3D以外でも、驚異的な長回しと撮影手法によりマジック・リアリズム的な表現を生み出したアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や現在公開中のジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデスロード』などは未だかつて観たことがない映像表現となっています。これらの作品は観たことのない映像表現があるが故に、見終わった観客をソーシャルメディアでの投稿へ導き、そんなにすごいならば自分を観てみたいと更なる観客を呼び込んでいくのです。

 

 ここまで読むと誰もが3Dなどによる映像表現が今後いつまでも「映画的」なのかという疑問を持つとは思いますが、それについてはそうなるかもしれないし、むしろ短期間で取って代わられる可能性もあり、どちらとも言えないというのが答えになるでしょう。なぜなら、これはありとあらゆるテクノロジーにおいて言えることですが、その技術が独占的ではない限り、テクノロジーはより進歩しながらも安価に手軽に利用できるようになるのはこれまでの歴史が証明しています。そのときには、テレビ作品からネット上のアマチュア投稿作品まで普及していくことは間違いありません。そのときには映画がテレビやPCモニター上のコンテンツの価値としてはフラットになったのと同様に、フラットに扱われるようになるだけです。では、その瞬間に再度「映画的」という単語が無意味になるのかといえば、それもまた答えとしてはわからないということになります。ただ、音楽やファッション、アート、演劇といったあらゆるものを取り込んだ総合芸術であった映画がテクノロジーの変化を貪欲に取り込んでいくことで、また新たな「映画的」な要素が生まれてくるのではないでしょうか。既に行われているチャレンジとして、Oculus Riftに代表されるヴァーチャル・リアリティテクノロジーの活用があります。GQマガジンのインタビューにてVFXアーティストのイアン・ハンターは現在制作している作品について答えています。

──ニュー・ディール・スタジオが今注力しているヴァーチャル・リアリティについてお話をしてください。

 

ヴァーチャル・リアリティ(以下VR)は長い間存在していましたが、いままではそれを実現するための技術と設備が整っていませんでした。しかし現在は、技術の発展によりやっと可能なことが増えてきた、という状況です。私たちが行うのは、「シネマティック・ヴァーチャル・リアリティ」というものです。いままでは、ジャンプをしたり、自転車に乗ったりというVFを作られてきましたが、私たちはストーリーの中で360度全方向の世界をライヴで動かそうとしています。私のパートナーであるマシューは、『ミッション』という短編を作りましたし、私は『KAIJU FURRY』という映画を作りました。

 

──ストーリーのあるVFということですが、もう少し具体的に教えて下さい。

 

オキュラスのようなゴーグルをつけて、自由に視点を動かすことができるのですが、いままでのVFと異なるのは、あくまでもストーリーに沿った体験をするという点です。これがおもしろいのは、映画でありながら演劇的なの要素を含んでいるところです。例えば、演劇はステージ上であれば自由に誰を見ても物語は進行しますよね? これを映画に取り入れるのです。つまり映画として物語は進行してはいくものの、カメラが固定されていない分、どこを観ても発見があるわけです。当然、その間俳優はずっと演技をし続けなければなりません。

gqjapan.jp 

 もしこのような作品作りが普及していくとそれは果たして映画なのか議論を呼ぶ可能性はあるものの、これは映画の持つ別の「映画的」な側面を強化することになるでしょう。このように技術によって映画表現の可能性が更新され続けるからこそ、2015年現在の「映画的」なものについて考えていかなければならないのではないでしょうか。

『とんかつDJアゲ太郎』:DJは何をしているのかがわかる素晴らしいギャグマンガ

 DJという表現者が置かれている環境は正直なところまだまだ厳しい。もし「俺DJやってるんだ」と音楽に詳しくない友だちに伝えると、おおよそ99%以上の確率で「これでしょ」と言いながら両手でスクラッチする動きか、ヘッドフォンに手を当てながらスクラッチする動きをやられるだろう(僕はこの動きは野球で言えば、バットを振りながらボールを投げる動きをするようなものだと思っているのだが)。実際のところ、「これ」ではないのだが、説明するのも面倒なので「まぁ、そうだよ」と返してしまう。
 とはいえ、これはわたしたちの友だちに限った話ではない。一昔前に放送されていたレモンガスのCMでもスクラッチ的なDJもどきな動きをしていたのだがこれも、そんな動きしないわ•••というものだった。このCMが長く続きある程度人気であったということは、要はこれが世の中におけるDJのパブリックイメージなのであろう。結局の問題はDJというものが何をやっているのか理解されていないということで、そういった動きをする彼らには悪意はなく、ヘッドフォンで聞く、レコードの頭出しをするといった特徴的な動きを抽出しているだけなのだろう。
 そういった点において、とんかつDJアゲ太郎は最大級の配慮がなされて作られた作品と言える。「しぶかつ」という渋谷にあるとんかつ屋の息子として生まれた主人公・揚太郎はトンカツ弁当の配達のお礼にとクラブのフロアに足を踏み入れて以来、クラブにハマり、トンカツもフロアもアゲられるとんかつ屋兼DJ=「とんかつDJ」を目指して修行をしていく。

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 基本的にこの作品のギャグは、例えばヒップホップなどのジャンルで行われるクイックミックスを「串カツ」、ぬか漬けの掘り起こしを「ディグ」などのように、揚太郎がとんかつとDJの共通点を(無理やり)見出していくことで生まれている。つまり、DJと「とんかつ屋」を掛け合わせたことがおもしろさに基本になっているのであって、DJそのもの価値をサゲて笑いを取るようなものでは決してない。前述のレモンガスのCMや昨今のDJ KOOの扱いからもわかるように、なぜか世の中にある「DJはバカにしてもいい」という空気に迎合していない。むしろ、DJとは何をするものなのか、クラブという場所が一体どういうところなのか全く知らない人であっても読んでいくだけわかるように作られており、そのことだけで価値がある。
 とはいえ、ワンアイデアから生まれた作品故に2巻にして既に息切れ感、一回り感はがあり、今後巻き返すアイデアはあるのか疑問であった。しかし、オンラインで連載されている3巻にあたるだろう部分では新章が展開されており、ヒップホップDJならではの新たな仲間と出会うなど勢いを取り戻してきている。長く続くことだけがマンガの価値ではないが、キリのいいところまで是非続いて欲しい作品である。

Mumford & Sons『Wilder Mind 』CDが売れない時代と、スタジアム・ロックのつまらなさという矛盾

 2013年に活動休止したMumford & Sonsが帰ってきた!と全面的に喜んでいいのだろうか。このアルバムを聞くと音楽ビジネスの変化に絡め取られただけなのではと思えて仕方がない。それはなぜなのか、一つ前のアルバムと活動休止に至る流れから考えていく。
 『Sigh No More』、『Babel』の二作によって一気にブレイクした彼らの特徴はアコースティックなパンクサウンド、それもバンジョーといった楽器を用いることによるトラッドな音色にあった。もちろんシンガロングできるメロディセンスは持ち合わせていたが、それは売れるバンドであれば持ち合わせているもので、彼らだけが持ち合わせている唯一無二のものではない。
 個人的には2013年のフジロックのベストアクトは彼らである。アコースティックな楽器を叩き鳴らされる音にグリーンステージの誰もが踊り歌う姿は感動的ですらあった。トラッドなパンクサウンドでありながら、あれだけバカでかいステージでベストなパフォーマンスを繰り広げていた姿を目撃してしまったのだから、このバンドにはコールドプレイのような単なるスタジアム・ロックバンドに成り下がって欲しくはないと思っていた。しかし、活動休止にあたり聞こえてきたのは自身のサウンドに対するネガティブな意見であった。

 

「やり尽くしたというのは、控え目な言い方だよね。ぼくたちはバンジョーを殺戮したんだよ。そうさせたんだよ。バンジョーなんてクソくらえだよ。ぼくはバンジョーなんかファッキンうんざりだ」※1


 おそらく『Babel』というアルバムを作る前にはあったであろう、バンジョーを使ったこのサウンドを極めるという思いは素晴らしいアルバムを作り、その後の長い長いツアーを経る中で大きく変化していったことがわかる。さすがにこうなってしまっては活動休止せざるを得ない。自らの特徴を自ら否定してしまっているのだから。そこまで大きな亀裂が入ったにも関わらず、彼らはもう一度アルバムを作るために活動を再開した。しかし、バンジョーを握っていたその手にはエレキギターが握られていた。結果的に生まれたサウンドはU2やコールドプレイ的なスタジアム・ロックである。そこに残ったのはみんなが歌うことの出来る優れたメロディだけで、その他には対した特徴もないサウンドになってしまった。
 とはいえ、彼らがこういったアルバムを作らなければいけない理由はものすごくよくわかる。活動を再開し、アルバムを作るということは今の音楽ビジネス的に考えれば、スタジアムやアリーナ的な規模の会場で1年近くライブし続ける日々が始まるということである。なぜならば、CDが売れる時代ではなくなったため、大きく稼ぐにはデカい会場でライブしていく必要があるからだ。そういったライブでは過去の曲はもちろん演奏されるだろうが、今の自分たちなら鳴らせる音楽をやりたいと思うのは、成長過程にある人間であれば当然のことだろう。確かに彼ら自身にとってはチャレンジングな試みであったのではないかと思う。でも、スタジアムで演奏するという歴史は既に必要十分なほど積み重ねられており、そのことをクリアするだけではリスナーは満足できない。スタジアムで鳴らすに十分なクオリティにはなっていると思うが、ただそれだけである。スタジアム・ロックの闇はそこにある。

 

※1:マムフォード・アンド・サンズのウィンストン・マーシャル、バンドは「終わった」 (2014/03/29)| 洋楽 ニュース | RO69(アールオーロック) - ロッキング・オンの音楽情報サイト

『セッション』 名声とプライドを追い求めた愚か者たちによるバトル映画

 話題の過ぎ去った感のある映画『セッション』を観てきたのですがさすがに思うところあり、レビューを書きたいと思います。結論を先に言えば、師弟モノとしては駄作ですが、原題の「鞭打ち」的なバトル映画の観点からはまぁいいのかもと思います。また、音楽映画としては地球上からなくなって欲しいほどの凄まじいクソ映画だと思います。
 ストーリーとしては、全米トップクラスの音大に入学したジャズドラマーのアンドリューくんはその大学でトップのビッグバンドに入るものの、指揮を取るフレッチャーの非人間的シゴキにより精神が崩壊してしまうが、再度奮起して独りよがりの素晴らしい(?)演奏を行うといったストーリーです。
 この映画が気に入らない点は大きく分けて3つあります。1つはドラムの技術がその叩く速さだけにフォーカスされている点、2点目はドラムが持つ音楽的に楽しいと思われる魅力に一切触れない点、3点目は音楽を聞きに来ている観客を冒涜する点になります。ひとつずつ見ていきましょう。
 
 まず1点目についてですが、僕はこの映画の冒頭のシーンを見た時に「あれ、ジャズドラマーと聞いてたけど、メタルのドラムの人なのかな?でも、メタルって音大で教えないよね?」と思いました。あまりにグルーヴ感がなく、ただひたすらに速く叩いているようにしか見えないためです。その後、主人公が練習するシーン、または壁にぶつかるシーンは全てドラムを速く叩く、または速いテンポを維持し続けるという身体的な問題に集中し続けます。しかし、ジャズというジャンルにおいて高速でドラムを叩き続くことは問題の一部でしかないはずで、また高速でドラムが叩けなかったとしてもそれがイコール一流になれないということではないと思われます。ではなぜ彼は速く叩くことに執着し続けるのか。それはバディ・リッチというドラマーに憧れ、彼の様に名声を得たいというだけでしかありません。しかし、ある程度音楽を聞いていて、いわゆる今ジャズ的なものを聞いている人であれば、この2015年に高速で叩けることはあまり魅力的な個性でないことはわかりますし、ただ速く叩くだけであれば機械にやらせればいいわけです。(この辺りはZ-Machinesというプロジェクトで実施されていることです)。であれば、本来教師がやるべきことは、アンドリューの間違った方向性を直してあげることだと思いますが、フレッチャーはあえてその弱点をついてただひたすらに追い込んでいくだけです。この辺りが教師でありつつ、悪役であるという役割なわけですが、そのような役割分担の映画に『セッション』という邦題をつけるセンスはかなりいかがなものかと思います。「鞭打ち」であればとてもよくわかります。指導すべき方向性が根本的におかしいので、全く感動する要素にならず本当にただのいじめにしか見えないのです。
 
 そして、2点目ですがそもそもドラムというのはベースと合わせてリズム隊を構成しているわけでよい演奏をするにはドラム単体で活躍すればいいってものでもありません。このことについて少しジャンル違いの話をすると、ストレイテナーというロックバンドがいますが、このバンドはもともとベースレスのギターとドラムだけでしたがある時期にベースが加入します。そのとき、とあるインタビューでドラムを叩いていたメンバーがベースと合わせることがこんなに楽しいことだと知らなかった的なことを答えていました。ベースがいないバンドは音が研ぎ澄まされていてそれはそれでカッコいいのですが、ベースとドラムが噛みあうと同じ曲であっても音が跳ねるんです。ということで、ビッグバンドに所属しているのだからただ一人で目立てばいいわけではなく、周りのメンバー特にベースとの関係性はとても重要だと思うのですが、そういった描写は一切でてきません。百歩譲って、フレッチャーに追い込まれていたときは精神的余裕がなかったからという言い訳はありかもしれません(とんでもないアホみたいな事故の後でも演奏したがるぐらいなので)。でも、この点についても本当に指導すべきは教師であるフレッチャーなんですよね。何独りよがりに演奏してんだと。周りを見て、バンドとしての演奏に従事せよと指摘すべきです。でも、(ただの主人公の敵役なので)フレッチャーはそんなことを言わないですし、アンドリューもそんな当たり前のことに気がつくことなく、最後の最後までバンド全体での演奏をぶち壊し続けていきます。これも結局アンドリューの名声を得るという目的のために誰も彼も押しのけて演奏しなければいけないという妄想によるものです。最後のドラム・ソロのシーン、隣のベースを引いている演奏者の顔を見ましたか。「なんだよこいつ、勝手に演奏しやがって。演奏ぶち壊しじゃねーか。」と明らかに不満な顔をしています。彼は最初から最後までバンドの中でドラムを演奏するという楽しさに目覚めることはありません。それどころか、そもそも楽しそうに演奏するというシーンそのものが現れることがありません。ですから、観ているこちらも演奏シーンを観ていてハラハラと緊張することはあっても、心を許すことはできません。音楽映画で音楽をやっていて楽しくないって、普通に考えておかしいと思うのですがどうなのでしょうか。ある意味、革命的とも言えます。
 例えば、前クールで放送されていたアニメ『四月は君の嘘』が感動的なのは女の子が死んでしまうからではなく、音楽の楽しさが表現されているからです。ひたすら楽譜に書かれていることを正確に引くべしという母親の呪いとも言える教えに囚われ続けた主人公が、同級生の女の子と出会うことで少しずつ弾くことの楽しさを取り戻していく。その取り戻していくのは演奏会なので真剣そのものですが、しかし呪縛から開放され弾くこと、表現することの楽しさが徐々に溢れてくることがイキイキと描かれているから魅力的なのです。同じ音楽使った作品であっても、音楽をただの道具として使われている『セッション』は音楽の魅力を感じさせる作品には全くなっていません。
 
 最後に3点目ですが、ラストの演奏会シーンでフレッチャーはアンドリューに対してある騙しを行い陥れます。このシーン、演奏前にフレッチャーは観客に対してこのバンドは全米一のビッグバンドであることを伝え演奏しています。つまり、全米一の演奏を楽しみに観に来ているお客がいるということです。にも関わらず、たった一人を陥れるためだけにバンドとしての演奏をぶち壊しにするような騙しを入れるという倫理感が全く理解できません。この辺りもアンドリューに対するフレッチャーの「鞭打ち」的視点としてはわからなくもないのですが、まあ普通にねーわという漢字です。結局のところ、フレッチャーも音楽が好きでやっているのではなく自分が才能ある若者を率いているという境遇に溺れているだけなのです。彼はしきりに大学のバンドが自分のバンドであることや、私に恥をかかせるなといったことを繰り返しますが、最後の最後にその底の浅さが見えてしまう点がとても台無しになっていると思われます。誰も音楽好きなやつがいない音楽映画なんてあり得んのかという話です。
 
 結局のところ、全ては主要キャラクターが名声を得ることやプライドを支えることに音楽が使われてしまっているから、音楽がめちゃくちゃな扱いを受けてしまっているのです。しかもそれが、集団で演奏を行うバンドという形式を取っているにも関わらず、バンドをないがしろにし、善と悪の対立に持ち込んでいるのがセンス悪いとしかいいようがありません。この監督は前作にクラシックピアノの演奏者が一音間違えたら射殺されるというストーリーの『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という作品を作っており(未見。予告見た段階で見る気をなくした)、これもまたシナリオを聞くだけで音楽的にはねーわという話です。結局のところ、これからわかるのは作りたいシチュエーションに合わせて音楽を利用しているだけの監督ということです。なので、個人的には金輪際音楽映画を作ってほしくはないのですが、『セッション』がこれだけ売れてしまうとまた同じような作品作るんだろうなぁと思いぐったりしています。

モルテン・ティルドゥム監督『イミテーション・ゲーム』

 天才数学者アラン・チューリングエニグマ解読とその後について実話をベースにした作品がイミテーション・ゲームで、2015年のアカデミー作品賞ノミネート作である。主役はテレビドラマシリーズである『SHERLOCK』でシャーロック・ホームズ役を演じているベネディクト・カンバーバッチ。ホームズ役に続き、天才であり、変人であるという人物を演じている。


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編 - YouTube


 まず、エニグマについて知識がない人たちに対してざっくりと説明をすると、第二次大戦時にドイツ軍が利用していた暗号生成器で非常に強力であったことで有名である。エニグマを用いて作られた暗号はエニグマを持っているだけでなく、解読をするための暗号鍵が必要となる。暗号解読のために暗号鍵が必要という方式ははそれまでにあった暗号と違いはないが、その暗号鍵の組み合わせパターンが膨でかつ時間の制約があるというのが特徴的である。暗号鍵の通り数はなんと159,000,000,000,000,000,000通りもある上に、24時間ごとにその暗号鍵を変更するという方式をとったためコンピュータもない時代に解読するのはほぼ不可能であった。そのためドイツ軍の通信をほぼ傍受していたにも関わらず、解読ができずにやられっ放しの状況が続いていたのである。
 その解読困難な暗号に対して、暗号研究者、言語研究者、数学者などを集めてイギリスが秘密裏に行っていた解読プロジェクトが組まれた。その中で活躍したのが、主人公のアラン・チューリングである。彼が天才的な数学の才能を活かし、エニグマから生まれる暗号を解読するための機械「チューリング・ボンベ」を生み出し、戦争に勝利していくまでの過程が描かれている。
 その過程は宮崎駿監督『風立ちぬ』と被る部分が大いにある。『風立ちぬ』が飛行機の設計に関して天才的な才能を持つ主人公が、戦争に使われる、それも戦争の後半では特攻などの人命を奪うための道具になっていくの開発に従事する様子が描かれる。映画ラストで、彼は壊れ、墜落したゼロ戦の山を彼の憧れである飛行機設計士と眺めるシーンが描かれる。自分たちが生み出したものが人々の命を奪っていく様をまざまざと見せつけられるのである。
 チューリングが行ったことは、『風立ちぬ』の主人公とは違うもののその苦しさはどちらが勝るとも言いがたいほどのものある。『イミテーション・ゲーム」で最大の盛り上がりポイントは、エニグマを短時間で解読するための方法が見つかったときの夜のシーンである。ある飲み会での会話から解読するためのアイデアを見出し、テストするための暗号を探し、チューリングボンベのある部屋にダッシュ、暗号鍵発見の様子を見守り、即座に暗号鍵が見つかっては驚き、再度エニグマがある部屋にダッシュで戻り、その解読鍵で元の文を見つけたときの喜びの爆発はとても美しいシーンである。
 しかし、その後に突きつけられる現実はそういった喜びを一気に失わさせるものである。それは彼らがエニグマを破ったことをドイツ側に知られてしまえば、即座に新たな暗号方式に変化してしまう。そのため、彼らはドイツ軍にエニグマが解読されたと悟られないようにしながら、戦争に勝利するために日毎にどの戦いで勝利し、どの戦いで負けるかを統計的な根拠に基づき決めることを繰り返していく。それはつまり、自分たちの計算結果によって、そして自分たちの手で生きる人、死ぬ人を思い入れなどを一切切り離し、戦争に勝つためだけに取捨選択していくという作業である。そのストレスは計り知れないものがある。しかし、彼らが挙げたこれらの成果は今後に発生するかもしれない戦争のために全て極秘事項となってしまう。
 彼は戦争後自らを逮捕した刑事に対して問いかける。「私は戦争の英雄だったのか」と。歴史が明らかになったことにより、第二次大戦でチューリングが挙げた成果を誰もが知ることとなった。そして、今であれば誰しもが彼は「英雄」であったと答えるであろう。しかし、そういった声が本人に届く前に彼は自殺を選択し亡くなってしまう。
 そういった輝かしい成果を挙げながら悲劇的な人生を終えた彼にとって、唯一あるかもしれない希望はこうした戦争での成果を現在のコンピュータに繋がる研究につなげていくことができたということだろう。戦争という予算が出るときに、自らの考える理想の機械の基礎を作ることが出来たことは良いことだったのかもしれない。
 しかし、これほどの天才をしょうもないことから自殺に追い込んだ英国の罪は本当に深い。

2014年 マイ・ベスト映画 ベスト5

今年は劇場で観た映画が65本。うち7割が今年公開の新作という感じでした。

前半はなんか不作の年だなぁと思ったものの、後半で傑作!って作品が次々と公開され、最終的には2014年はとてもよかったという感じでした。

では、マイ・ベスト映画のうちの上位5本の紹介です。

 

5位:デヴィッド・フィンチャー 監督『ゴーン・ガール』


映画『ゴーン・ガール』予告編 - YouTube


結婚5周年の記念日に突如失踪した妻。自宅に残されていたのは争った形跡と見られるテーブルや不審な血痕。事件性のある失踪を追っていくうちにどんどんと夫の不利な方向に進んでいく。そして、信用出来ない語り手たち。140分の映画の中でジャンル的面白さが変化していく。予告編からは全く想像が出来ない驚愕のラスト。ネタバレ厳禁。


4位:スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女


映画『her/世界でひとつの彼女』予告編 - YouTube


自分に最適化していく人工知能型OSに恋する男性とOSとのコミュニケーションを描いた映画。イヤホンを使った音声によってOSとコミュニケーションを取っていくため、主人公を演じるホアキン・フェニックスの一人芝居によってストーリーが進んでいく。さすがホアキン・フェニックスとしかいいようがない演技は圧巻。統一された色彩感覚、Arcade Fireによる劇伴もOSとの恋という夢のような映像をより際立たせている。

3位:クリス・ミラー、 フィル・ロード監督『LEGO ムービー』


『レゴ・ムービー』予告編 - YouTube


おもちゃを映画化した作品でいうとまず『トイ・ストーリー』が思いつくが、普通のおもちゃではなくLEGOにしかない魅力を考えぬいた上で作られたストーリー、メッセージには感動。LEGOだけあって子ども向けに作られているにも関わらず、大人のほうが楽しめるギャグが多く、また号泣度が高いのには驚くばかり。多くの人がLEGOというだけで敬遠していると思うが、LEGOムービーでしかありえない驚愕の映像表現含め見逃すのが勿体ない作品。


2位:ジェームズ・ガン監督『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』


映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』予告編 - YouTube


僕は最初のタイトルが出る惑星到着シーンでもう泣きました(開始3分くらいですが)。音楽、ダンスなどここ最近のヒーロー映画にない高揚感がいきなり爆発するこのシーンは本当に素晴らしい。そして、クライマックスの音楽の使い方にも泣きました(泣きすぎである)。ヒット連発のマーベルの映画の中でも1,2を争う素晴らしさ。アライグマを全面に出した予告編に引いた人(自分もそうでしたが)にこそ是非見てほしい作品。というか、この予告編なんでこんなにつまらなそうなんですかね。。


1位:クリストファー・ノーラン監督『インターステラー


映画『インターステラー』予告編 - YouTube


未来のことを作品として取り上げるとSFというジャンルで括ることが間違っているのではないかと思う。この作品はSF的な設定を使うことでしか表現しきれなかった親子のやり取りを描いている作品であり、そこで描かれる感情は今まで味わったことのない到達点にまで達している。ノーランらしくストーリー上の突っ込みどころやSF設定の矛盾点も満載にも関わらず、極力グリーンスクリーンを使わないなどのフィルムに記録される映像に関するこだわりは異常。映画愛に満ち溢れている。はっきりいって大して暗くもできないショボイ音響のせいぜい40インチ程度のテレビで見たところで、この映画の素晴らしさの5%ぐらいしか味わえないだろう。できるだけ大きなスクリーンで見るべき作品。


上記のうち、ゴーン・ガール、ガーディアンズ、インターステラーは今映画館で見れます。
この3本はどれも違った面白さを持った作品ですが、どれもとても楽しめる映画なので、
このチャンスに是非鑑賞してほしいです。

来年も素晴らしい映画に出会えますように!

andymori ラストライブ 武道館公演 レビュー

 ラストライブというものはいったい誰の、そして何のためにあるのだろうか。そういった場面に立ち会う度にそのことを考えてしまう。andymoriの二度目のラストライブはおそらく彼らが作ってきた曲のためにあったのではないかと思う。
 まず、andymoriの武道館でのラストライブは異例中の異例の出来事であった。当初、2013年にアルバム『宇宙の果てはこの目の前に』を発表し、アルバムツアーと武道館公演で解散となるはずだったが、ボーカルの小山田が河川に飛び降りたことによる重症の結果全てキャンセルとなってしまう。まずこの段階で一度ラストライブがなくなってしまっている。リハビリと治療を終え、今年改めてラストライブをSWEET LOVE SHOWER 2014で行ったが、そのライブ中にもう一度ライブを行いたいというまさかの発言によって、急遽武道館での公演が追加で行われることになった。だから、企画としては3度目のラストライブ。そして、実施された2度目のラストライブなのである。
 そして演奏された全41曲。これでもかとばかりに演奏されたたくさんの曲。最後の最後のライブなのだから感動的にしようと思えばいくらでも感動的にできただろう。例えば、アンコール前最大の盛り上がりを見せた「クラブナイト」で終わっていたら?センチメンタルな曲を後半にまとめてもってきたら?ラストの「Life is Party」をドラマチックに終わらせたら?たらればはいくらでも思いつくが、結果的に彼らはそうはしなかった。BPMの速い曲、遅い曲をいい言い方で言えば緩急をつけて、悪い言い方をすればまとまりなく演りたいように進めていく。そして、演り残した曲がなくなったかのように小さな挨拶をしてステージを去っていった。
 バンドの解散というのはファンとの別れという面もあるが、それ以上にそのメンバーで曲が演奏されることがなくなるということであり、場合によっては歌うべき人によって二度と歌われなくなるということでもある。今回のライブはandymoriにはこれだけ多くの素晴らしい曲があるのだということの何よりの証明であり、そして41曲へのお別れでもあった。