『セッション』 名声とプライドを追い求めた愚か者たちによるバトル映画

 話題の過ぎ去った感のある映画『セッション』を観てきたのですがさすがに思うところあり、レビューを書きたいと思います。結論を先に言えば、師弟モノとしては駄作ですが、原題の「鞭打ち」的なバトル映画の観点からはまぁいいのかもと思います。また、音楽映画としては地球上からなくなって欲しいほどの凄まじいクソ映画だと思います。
 ストーリーとしては、全米トップクラスの音大に入学したジャズドラマーのアンドリューくんはその大学でトップのビッグバンドに入るものの、指揮を取るフレッチャーの非人間的シゴキにより精神が崩壊してしまうが、再度奮起して独りよがりの素晴らしい(?)演奏を行うといったストーリーです。
 この映画が気に入らない点は大きく分けて3つあります。1つはドラムの技術がその叩く速さだけにフォーカスされている点、2点目はドラムが持つ音楽的に楽しいと思われる魅力に一切触れない点、3点目は音楽を聞きに来ている観客を冒涜する点になります。ひとつずつ見ていきましょう。
 
 まず1点目についてですが、僕はこの映画の冒頭のシーンを見た時に「あれ、ジャズドラマーと聞いてたけど、メタルのドラムの人なのかな?でも、メタルって音大で教えないよね?」と思いました。あまりにグルーヴ感がなく、ただひたすらに速く叩いているようにしか見えないためです。その後、主人公が練習するシーン、または壁にぶつかるシーンは全てドラムを速く叩く、または速いテンポを維持し続けるという身体的な問題に集中し続けます。しかし、ジャズというジャンルにおいて高速でドラムを叩き続くことは問題の一部でしかないはずで、また高速でドラムが叩けなかったとしてもそれがイコール一流になれないということではないと思われます。ではなぜ彼は速く叩くことに執着し続けるのか。それはバディ・リッチというドラマーに憧れ、彼の様に名声を得たいというだけでしかありません。しかし、ある程度音楽を聞いていて、いわゆる今ジャズ的なものを聞いている人であれば、この2015年に高速で叩けることはあまり魅力的な個性でないことはわかりますし、ただ速く叩くだけであれば機械にやらせればいいわけです。(この辺りはZ-Machinesというプロジェクトで実施されていることです)。であれば、本来教師がやるべきことは、アンドリューの間違った方向性を直してあげることだと思いますが、フレッチャーはあえてその弱点をついてただひたすらに追い込んでいくだけです。この辺りが教師でありつつ、悪役であるという役割なわけですが、そのような役割分担の映画に『セッション』という邦題をつけるセンスはかなりいかがなものかと思います。「鞭打ち」であればとてもよくわかります。指導すべき方向性が根本的におかしいので、全く感動する要素にならず本当にただのいじめにしか見えないのです。
 
 そして、2点目ですがそもそもドラムというのはベースと合わせてリズム隊を構成しているわけでよい演奏をするにはドラム単体で活躍すればいいってものでもありません。このことについて少しジャンル違いの話をすると、ストレイテナーというロックバンドがいますが、このバンドはもともとベースレスのギターとドラムだけでしたがある時期にベースが加入します。そのとき、とあるインタビューでドラムを叩いていたメンバーがベースと合わせることがこんなに楽しいことだと知らなかった的なことを答えていました。ベースがいないバンドは音が研ぎ澄まされていてそれはそれでカッコいいのですが、ベースとドラムが噛みあうと同じ曲であっても音が跳ねるんです。ということで、ビッグバンドに所属しているのだからただ一人で目立てばいいわけではなく、周りのメンバー特にベースとの関係性はとても重要だと思うのですが、そういった描写は一切でてきません。百歩譲って、フレッチャーに追い込まれていたときは精神的余裕がなかったからという言い訳はありかもしれません(とんでもないアホみたいな事故の後でも演奏したがるぐらいなので)。でも、この点についても本当に指導すべきは教師であるフレッチャーなんですよね。何独りよがりに演奏してんだと。周りを見て、バンドとしての演奏に従事せよと指摘すべきです。でも、(ただの主人公の敵役なので)フレッチャーはそんなことを言わないですし、アンドリューもそんな当たり前のことに気がつくことなく、最後の最後までバンド全体での演奏をぶち壊し続けていきます。これも結局アンドリューの名声を得るという目的のために誰も彼も押しのけて演奏しなければいけないという妄想によるものです。最後のドラム・ソロのシーン、隣のベースを引いている演奏者の顔を見ましたか。「なんだよこいつ、勝手に演奏しやがって。演奏ぶち壊しじゃねーか。」と明らかに不満な顔をしています。彼は最初から最後までバンドの中でドラムを演奏するという楽しさに目覚めることはありません。それどころか、そもそも楽しそうに演奏するというシーンそのものが現れることがありません。ですから、観ているこちらも演奏シーンを観ていてハラハラと緊張することはあっても、心を許すことはできません。音楽映画で音楽をやっていて楽しくないって、普通に考えておかしいと思うのですがどうなのでしょうか。ある意味、革命的とも言えます。
 例えば、前クールで放送されていたアニメ『四月は君の嘘』が感動的なのは女の子が死んでしまうからではなく、音楽の楽しさが表現されているからです。ひたすら楽譜に書かれていることを正確に引くべしという母親の呪いとも言える教えに囚われ続けた主人公が、同級生の女の子と出会うことで少しずつ弾くことの楽しさを取り戻していく。その取り戻していくのは演奏会なので真剣そのものですが、しかし呪縛から開放され弾くこと、表現することの楽しさが徐々に溢れてくることがイキイキと描かれているから魅力的なのです。同じ音楽使った作品であっても、音楽をただの道具として使われている『セッション』は音楽の魅力を感じさせる作品には全くなっていません。
 
 最後に3点目ですが、ラストの演奏会シーンでフレッチャーはアンドリューに対してある騙しを行い陥れます。このシーン、演奏前にフレッチャーは観客に対してこのバンドは全米一のビッグバンドであることを伝え演奏しています。つまり、全米一の演奏を楽しみに観に来ているお客がいるということです。にも関わらず、たった一人を陥れるためだけにバンドとしての演奏をぶち壊しにするような騙しを入れるという倫理感が全く理解できません。この辺りもアンドリューに対するフレッチャーの「鞭打ち」的視点としてはわからなくもないのですが、まあ普通にねーわという漢字です。結局のところ、フレッチャーも音楽が好きでやっているのではなく自分が才能ある若者を率いているという境遇に溺れているだけなのです。彼はしきりに大学のバンドが自分のバンドであることや、私に恥をかかせるなといったことを繰り返しますが、最後の最後にその底の浅さが見えてしまう点がとても台無しになっていると思われます。誰も音楽好きなやつがいない音楽映画なんてあり得んのかという話です。
 
 結局のところ、全ては主要キャラクターが名声を得ることやプライドを支えることに音楽が使われてしまっているから、音楽がめちゃくちゃな扱いを受けてしまっているのです。しかもそれが、集団で演奏を行うバンドという形式を取っているにも関わらず、バンドをないがしろにし、善と悪の対立に持ち込んでいるのがセンス悪いとしかいいようがありません。この監督は前作にクラシックピアノの演奏者が一音間違えたら射殺されるというストーリーの『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という作品を作っており(未見。予告見た段階で見る気をなくした)、これもまたシナリオを聞くだけで音楽的にはねーわという話です。結局のところ、これからわかるのは作りたいシチュエーションに合わせて音楽を利用しているだけの監督ということです。なので、個人的には金輪際音楽映画を作ってほしくはないのですが、『セッション』がこれだけ売れてしまうとまた同じような作品作るんだろうなぁと思いぐったりしています。