『オルセー美術館展 印象派の誕生ー描くことの自由ー』@国立新美術館

 展示のビジュアルイメージにはエドゥアール・マネ『笛を吹く少年』が使われている。展覧会の名称こそ『オルセー美術館展』だが、マネを中心にそのついでにオルセー美術館から借りてきましたという感じは否めない。というのも、展示構成が1章「マネ、新しい絵画」から始まり9章「円熟期のマネ」で終わる。だが、特定の作家をある程度推すような構成であるにも関わらず、オルセー美術館に私が実際に行ったとき感じた凄まじさのようなものは現れていたように思う。ただ、その凄まじさは国立新美術館にとってメリットがあることなのかは微妙ではないかと思っている。


 オルセー美術館の凄まじさは今回展示されている作品が常設で展示されているということに尽きると思う。つまり、今回来日した作品以外にも数多くの歴史的名画が展示されており、日本の美術館でよくある目玉の作品ですよといった展示方法ではなく、ごくごく普通の並びの中や死角となるようなスペースに教科書に載っていたような名画が展示されているのだ。


 今回の新美術館での展示も、突然ミレーの『晩鐘』やモネのいくつもの作品が出てきたりと目玉の作品以外にも有名な作品来日しており、小規模ではあるものの凄さは表現できていたように思う。しかし、これらの展示がいつ行っても観れるということと、開催中のみしか観れないということでは価値として大きな差がある。その差を今回つくづく体感することなった。フランスのパリに住んでいれば、これらの作品が文字通り歴史的な作品としてその地域の人々に根付いていくからだ。美しさであったり、名画と呼ばれる基準を常に確認できるというのはそれだけで文化的なアドバンテージとなるであろう。


 今回の展覧会を開催した国立新美術館は常設のない大きな展示スペースを複数持つハコである。だからこそ定期的に魅力的な展覧会が開かれているのだが、今回のような美術館展が行われるとせっかく新しく作ったのだから世界に誇れるような常設の美術館という方向性でもいいのではないかと思ってしまうのである。展覧会には満足しても、美術館の在り方としてはどうもしっくりこないというなんとも難しい展覧会ではないだろうか。


オルセー美術館展 印象派の誕生 -描くことの自由-/2014年7月9日(水)~10月20日(月)/国立新美術館(東京・六本木)

ジェームズ・ガン監督『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』レビュー

 薄々みんなが気づいていたことが白日の下に晒されてしまった。「シリアスなヒーロー作品はもう終わりだ」ということだ。
 2008年、クリストファー・ノーランが『ダークナイト』で生み出したヒーロー像は画期的だった。主人公のバットマンは自らが正義であると思っている悪を倒すという行動によって、逆に悪が次々と発生するというジレンマに巻き込まれ、自らの使命とその影響力の間で引き裂かれ悩んでいく。この内面を描いた作風は斬新で、『ダークナイト』以後のヒーロー作品は主人公の内的葛藤の解決がメインに置かれるようになっていった。
 この傾向に疑問を投げかけたのは2012年の『アヴェンジャーズ』だろう。スーパーヒーローが勢揃いしたこの作品では、各キャラの内面はほぼ描かれることがないが、それぞれが協力し全力で暴れるだけでカタルシスを生み出している。ただ、この作品が「シリアスなヒーロー」という傾向を終わりに出来なかった理由ははっきりしている。それは単体でも映画に出来るスーパーヒーローが集まったからこそ出来た作品だからである。
 それと比べると、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』はアメリカ国内でもそれほど有名でない作品で、スター級の有名な俳優が出ているわけでもない。にも関わらず、群像劇、宇宙、音楽、コメディ、アクション、キャラクターの全てにアイデアを盛り込むことでヒーロー作品が本来持っていた高揚感を再現することに成功している。特に効果的なのは音楽だろう。新しい惑星に到着し探検するときの高揚感をウォークマンから流れる曲一発で表したオープニングはヒーロー作品に超人的な能力な能力やシリアスさが必須ではないことを証明した瞬間だろう。本当に観たかったのはアイデアに溢れたこんな楽しい映画だったということが思い出されてしまった今、アイデアなき安易なシリアスな作品は淘汰されていくだろう。

サンプル『ファーム』レビュー

 ある一組の夫婦が離婚の協議をする場面から始まる。離婚の原因は主に2つで、夫が息子の誕生以降仕事である研究に没頭し数年間まともな連絡をしなかったということへの不満、そして妻が浮気をせずに結婚したいと思う人を見つけたということだった。この夫婦には、不妊治療そして遺伝子操作によって生まれた息子がおり、彼は遺伝子操作によって得た能力によって生物のある一部を体に植え付け再生させる「ファーム」という仕事を父と共に行っている。また、妻が結婚したいと思っている相手はカルトまがいの宗教(?)にはまっており、ゾーントレーナーという女性の元に毎週通い診察を受けている。
 『ファーム』は今までサンプルが(私が観た限り)別々に扱っていたカルト的な信仰と、生命医学や再生医療といった先端医療を両方混ぜあわせた作品になっている。そしてこの2つが混ぜ合わさった結果何が倫理的に正しいのか、どちらもおかしいとしてどちらの方がマシであるのかという判断がつかない疑問を投げかける。今からこの作品で出てくるいくつかのトピックを挙げていく。

 まず、1つ目は遺伝子操作による子どもの誕生である。現在、自分の唾液を使って調査を行うとどういう疾患になりやすいかなどを調べるサービスが出てきている。そして、この検査と他の産業が結びつくとかなり危ういのではないかということが懸念として言われている。例えば、保険と結びつくとそもそもガンのリスクが高い人はガン保険が組みにくくなるのでは?と言った疑問が出ている。しかし、今懸念されているようなことは実は序の口で本当はこの作品によって描かれていることのほうが余程問題なのではないだろうか。つまり、お互いの遺伝子レベルでの利点、問題点がわかるとその組み合わせによってどういった問題を抱えた子どもが生まれるかが確率レベルでわかってしまう日が来るだろう。そこで、子どもを産まないという選択を取った場合、これは許されるのだろうか?また更に進歩してその問題を取り除くようなことが子どもが生まれる前に施せるようなことができるようになったら、これは許されるのだろうか?では、その遺伝子操作が失敗し思ったような子どもが出来なかった場合、手放すということは許されるのだろうか?
 2つ目はカルト的な信仰である。世の中にはプラシーボ効果というものあれば、考え方なんて何かあれば変わってしまう可能性すらある。科学的には何も根拠がないことであっても、本人が喜んでさえいれば、また本人に効果があったと考えられさえすれば許されることなのだろうか?
 3つ目は整形という問題。今は女性が自らの容姿をよりよくしたいと考え、顔や体にメスを入れることが多くあるが、実は男だって結構な人数整形しているのではないのだろうか?ということをこの作品で気付かされる。

 では、遺伝子を操作することはダメでも自分の体を変更するということは許されるのだろうか?先に上げた3つの問題について、現在では馴染みがあるから整形は許されるけれど、遺伝子操作は許されないとか、カルト的な信仰は暴走する危険があるからとか意見がでるかもしれない。でも害のないカルトだったらいいのか?とか、みんながやるようになったら遺伝子操作だって許されるのか?などすぐに正解は出せない。
 だが、こういったことはなるべく早く考える必要がある。なぜなら、科学は基本的には研究の発展や新たな発見を求めて競争をしており、その競争に対して倫理というのは基本的には抑止力にならないと言われている。なぜなら既存の問題に対してさえどれだけやったところで倫理観は統一できないからだ。こういった場合に抑止力となるのは法律なのだが、残念ながら法律というものは起きていない問題については作ることが難しい。となると結局のところ、完全なるストッパーにはならなかったとしても、こうすることはよくないという空気を作っていく他なくなるのである。

 そんな空気作りや問題点の検討ということにおいて、小説なり演劇なりフィクションの力は大きい。良き作品であればあるほど作り手の想像力を土台にして議論を展開することが可能になるからだ。今作『ファーム』も上記の3点をフラットに並べることでこちらの倫理観を炙りだす良作であることは間違いない。その作品を支えているのは、現実にいるかいないか絶妙なラインの狂った登場人物たちである。そして、それらは劇団サンプルが採取した人間の「サンプル」であり、演劇という「ごっこ遊び」によって生み出されたものだ。そういった意味で、この作品はサンプルの総決算なのかもしれない。またまた、ただの通過点でしかないのかもしれない。どちらであったとしても、この作品が恐るべき作品であることには変わりはなく、今後も見続けなくてはならないと思わせるのに十分なのである。

UA×菊地成孔『cure jazz reunion』レビュー

 2006年に発売された、菊地成孔UAのコラボ作品である『cure jazz』の再結成ライブを記録したライブ盤で、渋谷Bunkamuraオーチャードホールでの公演と、その前哨戦として行われた沖縄・桜坂劇場で行われた公演の2公演から選ばれた10曲が収録されている。この10曲がそれぞれどちらの公演で演奏されたものかは記載されていない。


 ライナーノーツや各種インタビューで菊地は再結成の経緯について、菊地から提案したものでも、UAから提案したものでもなく、イベンターから菊地に提案があり、それならばUAのOKが出ればやってもいいということから始まったと答えている。おそらく今『cure jazz』的なるものが必要もしくは有効だから再度やった方がいいと本人たちが考えていたわけではないというのがこのライブ盤では大事な要素であるように思う。なぜならば、このアルバムは2006年からいろいろあった8年間で成長したアーティストのドキュメンタリーとして機能しているからだ。


 一聴して気がつくのは、2006年のスタジオ盤よりも遙かに艶があるということだ。菊地のサックスもだが、特にUAのボーカルの印象が自分が持っていたそれまでとは大きく異なっている。今までの神秘的なイメージ(ビジュアル等の印象が影響しているかもしれないが)から、包み込むようでありながら生々しく、そして何よりも軽やかになっている。これらはライブ盤であることが影響として大きいだろう。しかし、ライブでこういったパフォーマンスをすることが前提になっていれば、スタジオでもこれに近い方向性の作品を作ったのではないだろうか。つまり、組み合わせとしては『cure jazz』であっても、当時考えていた『cure jazz』では表現できていなかった部分が出てきているように思う。そしてこれはいいことでも悪いことでもなんでもなく、人が8年分歳を取ったことの結果であり、それこそが堪らなく美しく思えるのだ。

Cui?『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 レビュー

 ある体育教師の体罰が原因で、教師への信頼がなくなった小学校で子どもたちの中で密かに導入されたのが生徒同士で行う学級裁判というシステム。先生が何と言おうと、学級裁判の結果を重視すると決めた子供たち。とは言っても行っているのは先生を除いた小学生。判断は雰囲気や頭のいい子の描いた画や悪意に流されてしまう。そういった学級裁判での結果やその裁判に関わった子供たち、その親、先生たちの様子を描いた作品である。
 今作と前作の2作品を観ただけだが、作・演出を手がける綾門優季の特徴は一言では言いにくい。というのも、戯曲と演出のそれぞれに際立った特徴があるからだ。戯曲については、一つずつのセリフがかなり長く、いわゆる現代口語演劇からは遠いながらも不自然ではない文学的な内容、そして皮肉にしろ直接的にせよあまり相手のことを考えないむき出しの悪意と自分の意見の応酬といったものになるだろう。一方の演出は、ほぼ間が空かない早口のようなセリフの応酬、印象的なセリフを複数人で同時に言う、映像を利用などが挙げられる。それらが合わさったのが今のCui?という劇団の特徴になるだろう。
 さて、この『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 で扱っていた学級裁判について他の作品だと、マンガ『鈴木先生』で取り上げている。この作品では結婚前に子どもができてしまった主人公である教師の鈴木を汚らわしい、裏切られたと感じた生徒が先生を学級裁判にかけるようと提案することから始まる。中学生と小学生という年齢による成熟度の差があるにせよ、『鈴木先生』では学級裁判という予期せぬイベントであっても何とか生徒の成長を促そうとし、そして結果的に生徒側もこれに応えて成長する姿を描いている。
 しかし、綾門が学級裁判を描くとそういった「よき成長物語」にはならない。学級裁判のシーンについても、言葉上、形式上、「裁判」に見えるような人物配置にしてはいるが、観客側からみれば、それはとても裁判のようには見えず、むしろ私刑を下すための「儀式」のように見える。生徒たちの一部を「オーディエンス」として登場させているのも、裁判に対して何か考えがあるわけではなく、もう既に決まっている決定がどう下されるか見守るだけでしかないことを示している。裁く相手に対する悪意をクラスの合意という形で、正当化されているように見せて相手に優位に立つための手段。子どもだからこそ行う、そういった汚い姑息な面が全面に出ている。
 一方の大人は彼らの倫理観や判断軸があり、子どもたちが決めた善悪や勝ち負けに一切影響されない。自分の子どもが被害を受ければ報復を行う。また、子どもの決定をたかが子どもの決定と切り捨て、常に大人である自分のほうが正しいという「大人げない」考えによって子供たちを一刀両断していく。自分たちが子どもであったときのことなどすっかり忘れて。
 学級裁判といった、この作品を鑑賞する観客にとって遠い昔に起きた(起きなかった)であろう題材に対して、大人を介入させることによりこの作品は大きな広がりを持たせている。後は作り手にとっても観客にとっても好みの部分にはなるが、こういった困難な場面を設定したとしても登場人物は悪意をぶち撒け合うだけで全く成長する気配がない。これは困難な場面を設定したとしても解決しないで袋小路に入っていく展開が原因(?)なのだが、とはいえこの解決しなさこそがこの劇団の特徴でもあるので、この解決しなさのパターンをどれぐらい見続けられるのかとても注目だと思う。


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マイルドヤンキー問題と、君に届け

 4月に放送された文化系トークラジオLifeのテーマは「マイルドヤンキー限界論」というものでした。放送中では最新の作品ということで「あまちゃん」が話題に上がることが多かったのですが、予告編を聞いた段階で頭の中で浮かんだ作品は『君に届け』でした。マイルドヤンキーとはどんなものか、Lifeのサイトの中でチャーリーが簡潔にこんな風に書いています。

「マイルドヤンキー」という言葉がメディアでは流行しているそうです。不良というよりは、上昇志向がなく、地域に密着して仲間との小さな範囲での消費にとどまる人たちということで、納得反発含めて受容されているというところでしょうか。
http://www.tbsradio.jp/life/20140427/


 一般的には「マイルドヤンキー」と『君に届け』は結び付けられないと思いますし、そもそもと恋愛マンガでしょと思われているかと思います。しかしこの作品は、ある段階から明らかにジャンルが変わっていきます。作品が始まった当初、学年一の爽やかでイケメンな風早と貞子というアダ名が付くほどの暗い黒沼がくっつくかくっつかないかと恋愛もの作品でした。しかし、この二人がくっついた後は二人のカップルとしての進展は描きつつ、明らかに高校生活の終わりというタイムリミットものに変化しています。

 タイムリミットものに変わっていく中で問題となるのは当然のことながら今後の進路についてです。

 この問題を考える際に、この『君に届け』という作品でおそらく重要であることが2つあります。一つ目は部活です。メインに登場するキャラクターのうち、部活に入っているのは真田龍という男の子しかいません(この辺り同じ別マで連載されている『青空エール』と大きく異なる点ではないでしょうか。)。これにより、高校生活という狭い空間の中で更に狭い人間関係の中でストーリーが進んでいきます。例えば、試合や大会がある部活に入っていれば、少しでも他校と関わることで自分たちとは別の価値観に触れることもありますし、試合がない部活であっても他の学年の人と関わることで別の成長を描くことも出来るでしょう。しかし、あえてこういった要素を全て排したことで、一度強固な関係性が築かれてしまえばその後彼らの関係性を壊すものが発生しにくい作りになってしまっています。さすがにそれではストーリーに波が生まれないからか、学年が上がることによって発生するクラス替えというイベントを使って関係性を揺るがそうとしてみます。しかし、これも関係性をより強める触媒にしかなっていません。そのことは、このクラス替えの一連のイベントでメインだった三浦健人が彼らのコミュニティに取り込まれていったことからも明らかでしょう。彼らは高校の卒業というイベントがなければ永遠にそこにいるかのような雰囲気を持ち始めています。全員が彼氏彼女を持ち、その6人だけでの安定した世界観。しかし、クレヨンしんちゃんのような作品とは違い年を取って成長していくという設定にした以上、卒業というのは回避できません。

 そこでもう一つ重要な要素が出てきます。それはこの作品の舞台についてです。それは、北海道の片田舎という、どちらかといえば郊外が舞台であることにあります。そのため、卒業にあたり進学や就職とは別の次元で3つの選択肢が提示されます。
1.地元に残る
2.札幌などの都心に出る
3.東京に出る
実は『君に届け』の作品中では、上記の選択肢のうち「3.東京に出る」という選択肢はある段階まで全く浮上してきません。というのも、彼らが最初に選ぶのは基本的には「1.地元に残る」というものだからです。その理由として、今いる環境の中での最善を選ぶことで築き上げてきた関係性を崩さないで済むというものが彼らの会話などから透けて見えてきます。

 『君に届け』という作品が「マイルドヤンキー」的だと感じたのはこの最初の進路面談の雰囲気が強く影響しているのかもしれません。この辺りは高校生が最初に考える進路なのだから仕方がないのかもしれませんが、彼らは外から何か力が働かない限り積極的に外に出ようとはしないのだということが明確に打ち出されています。どうとでも描くことが出来るにも関わらず、リアリティを残すとなったときにほぼ全員がこういった選択をさせることに驚きましたし、それと同時にこうやって「マイルドヤンキー」化していくのかと妙な説得感がありました。しかし、ここで部活という学校での勉強や行事以外のことをしてきた龍だけが、彼らの中で全く別の答えを最初から用意しているのがまた印象的です。彼は野球だけで進学をしたいと考えており、そのためであれば地域を選ばないという考えを持っています。「うちらずっと一緒だよね」といった空気がある中で、そのうちの一人がこういった考えを持っていることが伝わっていくうちに徐々に影響されていき、この作品のキャラクターの関係性が新たなフェーズに入っていきます。そして、進路面談を繰り返していくうちに提示される新たな可能性により、彼らは「1.地元に残る」という考えから、今ある環境を一旦なしにして自分にとってのみ最善の進路先を考えるということを始めていきます。それにより、彼らの中から「2.札幌などの都心に出る」、「3.東京に出る」といったものが出始めていきます。

 と書くとこういった変化がどこにでも発生しそうなものですがこの作品で描かれる教師像は少し変わっています。進路面談を行う教師の荒井は見るからに年齢が若く、彼らがよく集まっているラーメン屋に出入りし学校以外の場所でのコミュニケーションがあったり、風早や龍とは野球を通じて古くから知り合っています。彼らにとって広い意味で教師でありますが、「上下の関係」とは言い難く、Lifeにも出ていたNPO法人カタリバ的な表現で言えば、「ナナメの関係」に近いのではないでしょうか。ナナメの関係から、新たな選択肢や新たな可能性について提示されることで初めて受け入れられているのではないかと感じられるのです。これがもっと年が離れたいかにも教師教師したキャラクタから提示されていたらここまで素直に受け入れられたのかどうか。このことはこの作品ではもう描かれることはありませんが、思考実験としてはやって損はないのではないかと思います。

 

 つまり、この作品に出てくるような野球をするためであればどこでもいい(=外に出ていこうとする)人が仲間内にいないことや、生徒と教師との間でよい関係性が結べていないためにここではない場所についての可能性を受け入れらないことは、どこにでも有り得ることなのではないかと思うのです。『君に届け』の彼らは、たまたまそのコミュニティを出ることについて考えるきっかけを得たわけですが、そもそも考えることすらせずにそのコミュニティに留まるという人の多さがこの作品からなんとなく伝わってきたのです。

 ここまで長々と書きましたが『君に届け』はまだ連載中ですし、単行本でしか読んでいないので彼らがどういった選択肢を選んだのかまだわかっていません。既に恋愛マンガとして新たな金字塔となったこの作品が、いわゆる「マイルドヤンキー」的なるものに対してどういった答えを出すのか。そして、どうゴールを迎えるのか。その点にとても興味がありますし、とても期待しています。

佐々木敦「未知との遭遇」を読んだ

膨大な選択肢の中から選んでいかなければいけない現代で、

どう後悔なく受け入れていくのかという問いに対して運命論で答えていく本。

自分も中学生のときに運命論についてはぼんやりと考えていたので、

最後の解決によって結構すっきり入ってきた。

 

この本では運命論の中で2つの提案をしている

1.最強の運命論

何もかもあらかじめ定められていて、起きる出来事は起きるべくして起きる。そしてそれぞれについては何の理由や必然性もなしに発生する。

2.起きたことはすべていいことだと考える

過去だけでなく、未来に関してもこの考え方を適用し未知との遭遇を驚く

 

これはなんというか禅(体勢が崩れるとお坊さんに叩かれるアレ)の反対のように感じた。

もしくは行くところまでいってしまった粛清の反対というか。

あれは、叩かれ続けていくと体勢が崩れていたことではなく、

自分が前にした悪いことを遡って叩かれているという意識になるということを聞いたことがある。

粛清も同じで自分の過去の悪いと思っていることを遡っていくと、まあとにかくキリがない。

 

佐々木さんの最強の運命論では、起きてしまったことは起きてしまったし、

これから起きることも過去との因果はなく発生する。

よって今を肯定することができ、いつでも再スタートを切ることが出来る。

この文章を書いている今日は、ちょうど東北の大震災があった日なわけだけれども、

これについても僕は最強の運命論は使えると思った。

(当然、これは一番のツッコミどころだと思うが)