Cui?『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 レビュー

 ある体育教師の体罰が原因で、教師への信頼がなくなった小学校で子どもたちの中で密かに導入されたのが生徒同士で行う学級裁判というシステム。先生が何と言おうと、学級裁判の結果を重視すると決めた子供たち。とは言っても行っているのは先生を除いた小学生。判断は雰囲気や頭のいい子の描いた画や悪意に流されてしまう。そういった学級裁判での結果やその裁判に関わった子供たち、その親、先生たちの様子を描いた作品である。
 今作と前作の2作品を観ただけだが、作・演出を手がける綾門優季の特徴は一言では言いにくい。というのも、戯曲と演出のそれぞれに際立った特徴があるからだ。戯曲については、一つずつのセリフがかなり長く、いわゆる現代口語演劇からは遠いながらも不自然ではない文学的な内容、そして皮肉にしろ直接的にせよあまり相手のことを考えないむき出しの悪意と自分の意見の応酬といったものになるだろう。一方の演出は、ほぼ間が空かない早口のようなセリフの応酬、印象的なセリフを複数人で同時に言う、映像を利用などが挙げられる。それらが合わさったのが今のCui?という劇団の特徴になるだろう。
 さて、この『止まらない子供たちが轢かれてゆく』 で扱っていた学級裁判について他の作品だと、マンガ『鈴木先生』で取り上げている。この作品では結婚前に子どもができてしまった主人公である教師の鈴木を汚らわしい、裏切られたと感じた生徒が先生を学級裁判にかけるようと提案することから始まる。中学生と小学生という年齢による成熟度の差があるにせよ、『鈴木先生』では学級裁判という予期せぬイベントであっても何とか生徒の成長を促そうとし、そして結果的に生徒側もこれに応えて成長する姿を描いている。
 しかし、綾門が学級裁判を描くとそういった「よき成長物語」にはならない。学級裁判のシーンについても、言葉上、形式上、「裁判」に見えるような人物配置にしてはいるが、観客側からみれば、それはとても裁判のようには見えず、むしろ私刑を下すための「儀式」のように見える。生徒たちの一部を「オーディエンス」として登場させているのも、裁判に対して何か考えがあるわけではなく、もう既に決まっている決定がどう下されるか見守るだけでしかないことを示している。裁く相手に対する悪意をクラスの合意という形で、正当化されているように見せて相手に優位に立つための手段。子どもだからこそ行う、そういった汚い姑息な面が全面に出ている。
 一方の大人は彼らの倫理観や判断軸があり、子どもたちが決めた善悪や勝ち負けに一切影響されない。自分の子どもが被害を受ければ報復を行う。また、子どもの決定をたかが子どもの決定と切り捨て、常に大人である自分のほうが正しいという「大人げない」考えによって子供たちを一刀両断していく。自分たちが子どもであったときのことなどすっかり忘れて。
 学級裁判といった、この作品を鑑賞する観客にとって遠い昔に起きた(起きなかった)であろう題材に対して、大人を介入させることによりこの作品は大きな広がりを持たせている。後は作り手にとっても観客にとっても好みの部分にはなるが、こういった困難な場面を設定したとしても登場人物は悪意をぶち撒け合うだけで全く成長する気配がない。これは困難な場面を設定したとしても解決しないで袋小路に入っていく展開が原因(?)なのだが、とはいえこの解決しなさこそがこの劇団の特徴でもあるので、この解決しなさのパターンをどれぐらい見続けられるのかとても注目だと思う。


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